マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

脳を含む神経系の働きを“演算”にすぎないと、みなしてしまうと――

 ――脳を含む神経系が行っている“演算”は、今日のコンピュータが行っている演算とは全く別の何かであるはずだが、脳を含む神経系の働きの少なくとも一部にコンピュータとの相同性が見出せることは否定をしがたいので、あえて「演算」と呼ぶのがよい。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ところで――

 実際に、脳を含む神経系の働きを、

 ――演算

 にすぎないと、みなしてしまうと――

 人の社会は、かなり深刻な事態に陥ります。

 

 ――演算

 というのは、

 ――計算の実演

 くらいの意味ですから――

 その本質は、

 ――計算

 にあります。

 

 ――計算

 というのは――

 どこで、どんなふうに行われても、その結果は同じなのです。

 

 例えば、

  6÷2-3

 が、どこで、どんなふうに計算をされても、結果は、

  0

 です。

 

 あるいは――

 人がコンピュータに指令を入れるときに――

 その指令を、誰が、いつ、どこで、どんなふうに入れたとしても、結果は同じです。

 

 ――計算

 は、常に結果が同じなのです。

 

 その“計算”の実演が

 ――演算

 なのですから――

 

 ――演算

 の結果というものは、

 ――演算

 が始まる前から、既に決まっていることです。

 

 よって――

 脳を含む神経系の働きを、

 ――演算

 にすぎないと、みなしてしまうと――

 その働きには自由度が全く介在をしないことになります。

 

 ということは――

 脳を含む神経系の宿主――つまり、人――には、自由な意志の発動が起こりえない、という話になる――

 つまり、

 ――人は自由な意志を備えていない。

 という話になってしまうのです。

 

 この話を全面的に受け入れるならば――

 人は――

 例えば、悪事に手を染めても、罪には問われようがないことになります。

 

 いかなる悪事であっても――

 その悪事に手を染めることは初めから決まっていたわけですから――

 その人には、どうにも防ぎようがなかった――

 という話になるのです。

 

 こういう話なら――

 現代のあらゆる国の刑法を見直さなければなりませんね。

 

 が――

 そんな見直しがされることは絶対にないわけで――

 

 つまり――

 人は、

 ――脳を含む神経系の働きは、演算のようでありながらも、実際には、演算では決してありえない。

 ということを、おそらくは暗黙のうちに、認めているのです。