マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

その“仕分け”が自我の起源や自己の生成に関わっている

 脳を含む神経系について、

 

  (末梢起始の演算 + 中枢起始の演算)× 記録

  = 感覚の体験 + 反応の体験

 

 の図式における「記録」の役割は非常に重要であり――

 とりわけ重要なのは、

 ――記録の格納

 であろう、ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 より具体的にいえば――

 重要なのは、

 ――“末梢起始の演算”の記録と“中枢起始の演算”の記録との仕分け

 です。

 

 もちろん、

 ――記録の貯蔵

 も、

 ――記録の搬出

 も重要です。

 

 少しも蓄えておけない記録では役立ちませんし――

 すぐに取り出せない記録でも役立ちません。

 

 が――

 それら以上に重要なのは――

 しばらくは蓄えておけて、かつ、あとで取り出しやすいように記録が納められることでしょう。

 

 そのような意味で、

 ――記録の格納

 の本質は、

 ――“末梢起始の演算”の記録と“中枢起始の演算”の記録との仕分け

 にあると、いえます。

 

 この、

 ――仕分け

 が、自我の起源や自己の生成に深く関わっているように――

 僕には思えるのです。

 

 なぜ、そういえるのか――

 

 ……

 

 ……

 

 その理由については――

 もし、

 ――“末梢起始の演算”の記録と“中枢起始の演算”の記録との仕分け

 が適切になされていなければ、どうなるか――

 を考えれば、わかりやすくなります。

 

 おそらく、

 ――感覚の体験

 と、

 ――反応の体験

 との混同が起こるのです。

 

 自分の目や耳で感じたことを自分の頭が考えたこととみなしたり――

 自分の頭で考えたことを自分の目や耳で感じたこととみなしたり――

 

 ……

 

 ……

 

 このような体験――明らかに異常な体験――を繰り返していると――

 人は、自己と非自己との区別が曖昧になってくるでしょう。

 

 その区別が曖昧になることで、自我の根拠は危うくなるに違いありません。

 

 自我の起源や自己の生成に、

 ――“末梢起始の演算”の記録と“中枢起始の演算”の記録との仕分け

 が深く関わっている、というのは――

 そうした意味です。