マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“神経単位”の認識の難しさ

 脳を含む神経系については、

 ――“体験”の単位が“演算”や“配線”の単位を定める。

 といえるのではないか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 その“単位”こそが、本当の意味での、

 ――神経単位(neuron)

 ではないか、と――

 

 ……

 

 ……

 

 もし、そうだとすると――

 例えば、

 ――腎単位(nephron)

 と比べる際の、

 ――神経単位

 の認識の難しさが、よくわかります。

 

 ――腎単位

 については、12月9日の『道草日記』で述べました。

 腎臓を巡る血液から尿の成分を濾し出す部位と濾し出した成分を排泄へと導く管とが担っています。

 ――濾し出す部位

 も、

 ――排泄へ導く管

 も、定常的な構造物です――無数の細胞から成り立っています。

 腎単位は「尿の生成」という機能だけでなく、確固たる形態によっても裏付けをされています。

 よって、その認識は比較的に容易です。

 

 が、

 ――神経単位

 は――

 そのような裏付けを欠いている可能性があります。

 

 ――“体験”の単位が“演算”や“配線”の単位を定める。

 というのであれば――

 どのような“体験”がなされているかによって、その都度、“演算”や“配線”の単位が目まぐるしく変化をしているかもしれないのです。

 

 もちろん、

 ――目まぐるしく変化するのなら、そんなものは「単位」でもなんでもない。

 との反論は一理あります。

 

 が――

 それら“体験”によって規定をされる“演算”や“配線”の纏りや連なりは、それ以上に分割をされると、“演算”や“配線”としての存在意義を見出せなくなる、という意味では、

 ――単位

 あるいは、

 ――単位のようなもの――亜単位

 と呼べるような気がするのです。

 

 本当の意味での、

 ――神経単位

 は、

 ――単位

 でありながら、

 ――厳密には「単位」とはみなしえないもの

 なのかもしれません。