僕のいう、
――神経単位(neuron)
は、「体験の発生」という機能によって規定をされうるだけで――
例えば、腎単位(nephron)のように、確固たる形態によっても裏付けをされる、ということは、ないのではないか――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
つまり、
――神経単位
を成す神経細胞の集合は、それら神経細胞の個数も、それら神経細胞の接続の仕方も様々に異なっているのではないか――
ということです。
このように述べると、
――お前がいいたいことは「神経単位」ではなく、例えば「脳単位」といった言葉で表すのが適当ではないか。
といった指摘を受けるかもしれません。
――「神経単位」は、これまで通り「単一の神経細胞と同一である」とみなして何ら不都合はないではないか。
と――
……
……
つまり、
――原子とアミノ酸とで次元が違うように、今日の「神経単位」とお前のいう「神経単位」とでは次元が違うものの、どちらも単位ではある。
ということです。
たしかに、その通りなのですが――
……
……
僕は、
(神経細胞は、脳を含む神経系にとっては、単位ではない)
と考えたいのですね。
(神経細胞は、僕のいう「神経単位」にとっては、単位でありうるけれども、脳を含む神経系にとっては、単位ではありえない)
と――
……
……
――脳単位
といういい方についても――
僕は、
(意味がない)
と感じています。
神経が集まって脳ができているわけではありません。
脳は神経の――正確には「神経系の」――部分にすぎません。
感覚器や運動器と間接的ないし直接的に接続を保ち、それら諸器官の機能と合わせ、自身の機能も十分に発することによって初めて――
脳は意味のある存在と――自然科学的に意味のある存在と――なりえます。
単位の想定は、あくまで脳を含む神経系について行うのがよく、脳のみについて行うのでは意味がない、と――
僕は思います。