マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

再び「精神の意義」へ(11)

 ――精神の意義

 は――

 極言をすれば、

 ―― s や q (x, t) の書き換え

 にある。

 

 ただし――

 s は、身体の感覚器が受け取る信号を決める変数であり――

 q (x; t) は、身体の持ち主が、身体の外部における状態について、主観的に見積もる確率であり――

 x は、身体の外部における状態を決める変数である。

 

 どのように書き換えるのか、といえば――

 身体が“身体の内部の部分情報”を身体の外部へ送り出すのに費やしうる“身体の内部の全体情報”の量の上限を可能な限り低くするように――

 である。

 

 ということは――

 裏を返すと――

 身体にとって、“身体の内部の部分情報”を身体の外部へ送り出すのに費やしうる“身体の内部の全体情報”の量の上限が高くなることは、あまり好ましくない――おそらくは、身体の生存にとって、好ましくない――

 と、いうことであろう。

 

 なぜ――

 そのような仕組みになっているのか。

 

 おそらく――

 身体の持ち主は、“身体の内部の部分情報”を身体の外部へ送り出すのに費やしうる“身体の内部の全体情報”の量が多い場合には、身体の生存にとって危険な運動に敢えて及ぼうとするから――

 である。

 

 身体には、“身体の内部の部分情報”を身体の外部へ送り出すのに費やしうる“身体の内部の全体情報”の量が多ければ多いほどに、危険な運動を始めようとする機能があるのだろう。

 

 その機能が暴発をせぬように――

 精神は常に制御をかけている――

 

 それこそが、

 ――精神の意義

 と、いえそうである。

 

 『随に――』