マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

再び「精神の意義」へ(10)

 ――精神の意義

 は、できるだけ X (t) の量が減るように、身体に s や q (x, t) を決めさせていることにある――

 といえる。

 

 ただし――

 X (t) は、

  X (t) = ∫ q (x; t){− ln p (x, s; t) −(− ln q (x; t))}dx

 であり――

 t は、時刻であり――

 s は、身体の感覚器が受け取る信号を決める変数であり――

 q (x; t) は、身体の持ち主が、身体の外部における状態について、主観的に見積もる確率であり――

 ln は、高校の数学で学ぶ自然対数であり――

 p (x, s; t) は、身体の持ち主が、身体の外部における状態について、感覚器を通して察する確率であり――

 x は、身体の外部における状態を決める変数である。

 

 なお、定数の項は省くことにする。

 

 ……

 

 ……

 

 ここで、X (t) の由来を確かめよう。

 

 残念ながら――

 等式、

  X (t) = ∫ q (x; t){− ln p (x, s; t) −(− ln q (x; t))}dx

 を眺めているだけでは――

 その由来は判りづらい。

 

 X (t) の由来を考えるには――

 等式、

  X (t) = S (t) − Q (t)

 に戻る必要がある。

 

 この等式が、X (t) の定義であった。

 

 ここで――

 S (t) は、身体の持ち主にとっての“身体の外部における状態のエントロピー(entropy)”であり――

 Q (t) は、身体が、q (x; t) に関わる情報を身体の内部に受け入れる結果、身体の内部における状態で減少をするエントロピーである。

 

 ……

 

 ……

 

 なぜ、X (t) をこのように定めたのか。

 

 それは、ひとまず形式的に、

  R (t) = − X (t)

 としてみたことに始まっていた。

 

 R (t) とは何であったか。

 

 ……

 

 ……

 

 それは――

 身体が、時刻 t から時刻 t + Δt にかけて“身体の内部の部分情報”を身体の外部へ送り出すのに費やしうる“身体の外部の部分情報”の量の上限 Δ R (t) の総和――

 つまり――

 身体が、時刻 0 から時刻 t にかけて“身体の内部の部分情報”を身体の外部へ送り出すのに費やしうる“身体の内部の全体情報”の量 R (t) の上限――

 といえる。

 

 よって、

 ――“精神の意義”は、できるだけ X (t) の量が減るように、身体に s や q (x, t) を決めさせていることにある。

 というのは、

 ――“精神の意義”は、身体が“身体の内部の部分情報”を身体の外部へ送り出すのに費やしうる“身体の内部の全体情報”の量の上限 R (t) が可能な限り低くなるように、身体に s や q (x, t) を決めさせていることにある。

 と、いいかえられる。

 

 ――精神の意義

 を言葉で表せば、

 ――“身体の外部の部分情報”を受け入れ、“身体の内部の全体情報”を書き換えた上で、そのことを基に“身体の内部の部分情報”を生み出し、それを送り出すこと――

 であった。

 

 つまり――

 精神は、“身体の外部の部分情報”を受け入れ、“身体の内部の全体情報”を書き換える際に、その後、“身体の内部の部分情報”を身体の外部へ送り出すのに費やしうる“身体の内部の全体情報”の量の上限が可能な限り低くなるように、“身体の内部の全体情報”を書き換えている――

 と、いえる。

 

 その“身体の内部の全体情報”の書き換えで焦点になっているのが――

 おそらくは、s や q (x, t) の書き換えである。

 

 極言をすれば、

 ――“精神の意義”は、s や q (x, t) の書き換えにある。

 となる。

 

 『随に――』