マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

目隠しの少女剣士の「卑怯」

 昨日の『道草日記』に関連して――
 何をもって卑怯とすべきなのかを、今、考えている。

 例えば――
 老剣士が少女剣士に稽古をつけるような場面を考えよう。
 老剣士は男である。

 老剣士は、少女剣士に目隠しをさせ、自分は目隠しをせず、木刀を手に、少女剣士と相対する。
 少女剣士が闘いの勘を鍛えるための稽古である。

 ところが――
 目隠しの少女剣士は、木刀をもたされた、老剣士と相対した途端に、堪え難い恐怖を覚えたとする。
 そして、咄嗟に、
「これは卑怯です!」
 と抗弁した。

 はたして――
 この「卑怯」は、的を射ているといえるだろうか。

 実は、似たような場面を、物語でみたことがある。
 物語はアメリカ製だった。

 その場面では、男(老剣士)に邪念はなかったようである。
 が、女(少女剣士)に、

 ――卑怯

 とレッテルをはられ、結局、稽古の実践を思いとどまった。

 この場合――
 もし、男に真に邪念がなかったのなら、卑怯だったのは、むしろ女のほうである。
 稽古を拒否するためだけに「卑怯」という言葉を使ったのなら、方便の誹りは免れぬ。

 が、僕らは、男に、たしかに邪念がなかったと断言できるのだろうか。
 男の欲望は、さほどに単純なものではない。
 何が欲望なのか、自分でもわからなくなることがある。

 老剣士と少女剣士との話に戻ろう。

 この場合――
 何が卑怯なのか。
 あるいは、卑怯なことは何もないのか。

 どこまでが卑怯で、どこからが卑怯でないのか。

 答えは簡単には出せぬ。

 もちろん、老剣士が目隠しの少女剣士を木刀でメッタ打ちにすれば、卑怯は顕然化する。
 が、それを寸前のところで止め、その結果、少女剣士が何らかの洞察を得たとするならば、卑怯はない。少なくとも顕然化はせぬ。

 どこまでが卑怯で、どこからが卑怯でないのか――
 最後は、人の心の闇、あるいは心の襞に、全てがかかってくる。