マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

現代教育の病根

 現代教育の問題を考える――といったような議論を耳にして、いつも不思議に思うのは、
(どうして病根に分け入らぬのか?)
 ということである。

 現代教育の病根は、

 ――教える者が教わる者を試す制度

 にある。

 要は、試験のことである。

 この制度の弊害から自由であるところは、公教育の場合、ほぼ皆無といってよい。
 小学校以来、中学、高校、大学、大学院まで、生徒(児童、学生)は、常に何らかの試験を受けさせられる。

 この制度が、どれほどバカげているかは、検事や弁護士が判事を兼ねる比喩に集約されよう。
 教室で試験を課す教師は、法廷で論戦を挑む判事のようなものである。
 検事や弁護士に裁く権限がないように、教師にも本来、試す権限などはない。
 なのに、教師は試験を課す。

 こんな制度を自明とするから、病根が逞しくなる。

 教える側に傲慢を呼び込み、教わる側に猜疑を植え付ける。
 教わる側が教える側を疑う場所で、一体どんな教育が可能だというのだろうか。

 もちろん――
 試験を放逐すると、有能な教師以外は途方にくれる。

 だから、試験はあってもよい。

 が――
 試験は、あくまで教育の一環だ。方途の一つにすぎぬ。
 教育効果を無視した試験は、早急に一掃されなければならぬ。
 教わる側を評価するだけの試験は、無益であるばかりか有害である。

 そんなに試験をしたければ――
 まずは、教える側を試すのがよい。

 もちろん、教える側ではない者が試す。
 試すのは、教わる側でもよいし、教わる側の指定する者でもよいし、第三者でもよい。

 能力を問われるべきは、教える側であって、教わる側ではない。
 職業人として報酬を受け取っているのは、教える側だけである。