マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

教師の責務の柱

 教師は、

 ――勉強したくなければ、しなければよい。

 ということを、もっと声高に叫ぶべきだと思う。

 もちろん――
 教える相手が幼いうちは――
 そういうことは、いわぬほうがよい。

 勉強をすれば、将来、得をすることは目にみえている。

 そういう制度が、よいかどうかは別にして――
 勉強をした子供だけが、将来、比較的、多くの選択肢の中から、生きる手段を選びとることができる。
 その現実は否定しようがない。

 だから、まだ教える相手が分別のつかぬ間は、

 ――四の五のいわずに勉強しろい!

 と怒鳴り散らすことも、しつけの一環としては、意味がある。

 が――
 中学生活も後半に差し掛かれば、「しつけの一環」では通じなくなる。

 中学生ともなると――
 勉強をしたくないと本気で思い詰める生徒は――あるいは、本気で思い詰めつつある生徒は――そんなに珍しくはない。
 そういう生徒に向かって、

 ――いいんだよ、勉強したくなければ、しなくても――

 と囁きかけることは、教師としては、極めて誠実な態度といえる。
 もちろん、勉強を捨てる不利益を、きちんと理解させた上でのことだ。

 そこまで理解した上で、なおも勉強を捨てるなら――
 それも一つの生き方である。

 あとで、ほぞを噛むかもしれぬが――
 それも含めての人生である。

 大切なことは――
 このようなアプローチを、親は決して採れぬということだ。
 自分の血を分けた子供を相手に、

 ――それも一つの生き方――

 などと割り切れる親が、どこにいようか。

 親にできぬことは教師がやる。
 教師の責務の柱は、人生の選択の荘厳さを理性的に伝えることにある。