マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

認知症のこと

 先日、電車に乗って窓の外を眺めていたら――
 親子連れの話がきこえてきた。

 親は30代の女性――
 子は10歳前後の男の子である。

 親子は、どういうわけか、認知症の話をしていた。いわゆる「ボケ」のことである。
 家族や親族に患者がいるのかもしれない。

「ママは、忘れても大丈夫だよ」
 と男の子はいった。

「なんで?」
 と母親――

「忘れたことを僕が教えてあげるから――」
「大丈夫? だって、たくさん忘れちゃうんだよ」
「一つひとつ丁寧に教えてあげるよ」

 それをきいているうちに、何だか、いたたまれなくなってきた。
(そんなことを気安くいうな)
 と説教したくなったのである。

 ――忘れても大丈夫だよ。

 と、男の子はいった。

 ――僕が丁寧に教えてあげるから――

 と――

 が、
(本当に教えてあげられるかい?)
 と、意地悪く思った。

(だって、そのときのママは、きみの顔も忘れてるんだぜ)
 と――

(そして、そうなったママは、もう二度と元には戻らないんだぜ)
 と――

(せいぜい物忘れが進行しないように食い止めることしか、できないんだぜ)
 と――

     *

 もちろん、男の子に罪はない。
 たぶん、「ママ」の不安を軽くしたくて、そういったにすぎない。

 が、こちらが、いたたまれなくなったのは、必然である。
 そこにあるべき重い悲しみが、ないからだ。

 おそらく――
 そうした悲しみを察知する機会が、その男の子にはなかったのであろう。

     *

 女優の三田佳子さんが、認知症の母親に向けた顔つきを、忘れられない。
 TVドラマでの話である。

 母親は、食事をとったばかりというのに、握り飯を要求する。娘が握ったお結びを、次から次へと頬張っていく。
 その様子をみながら、自分が子供だった頃の母親を、色々と回想する。
 三田さんの額は、重い悲しみで満ちていた。

 このシーンを、僕は小学生でみている。
 認知症が、まだ「ボケ」だった頃だ。

 当時の僕が「ボケ」をリアルに理解したとは思えない。
 が、幸い、

 ――「親がボケる」ということの、とてつもなく重い悲しみ――

 だけは感じとれた。

 以来、「親がボケる」ということを、極力、考えないようにした。
 考えるのは、悲しくも、恐ろしかった。

 最近、その呪縛が解けつつあるのは、たぶん――
 医療を学び、現場で働くようになって、実際の「ボケ」を何度もみたからであろう。