今日は、宮城県東部の小さな街を、タクシーで4回ほど移動した。
そのうちの2回は――
同じ運転手さんであった。
予約をしたのではない。
偶然である。
1回目は朝――
駅前のタクシー乗り場で遭遇した。
2回目は昼――
勤め先の病院の玄関脇で遭遇した。
「ありゃりゃ、今朝、乗った人にソックリな運転者さんだ」
と思っていたら――
向こうも、
「ありゃりゃ、今朝、乗せた人にソックリなお客さんだ」
と思ったそうである。
「珍しいことがあるものですね」
と水を向けたら、
「いやいや――同じ人を一日に4回も乗せたことがありますよ」
と返された。
それも、まったくの偶然であったという。
狭い街でのことではあるが――
滅多にあることではないだろう。
還暦を過ぎたベテランの運転手さんであった。
何十年もタクシーを運転し続けた挙げ句の偶然に違いない。
これも巡り合わせの不思議というヤツだ。
こうした奇遇が劇的な展開を生んだりするのは――
物語の世界では、よくあることだ。
が――
現実の日常では――
とくに何かを生んだりはしない。
そこに何か特別な意義を見出そうとするのは、ヒトの不毛な努力であろう。
原始地球の海中で、最初の生命が誕生したときも――
おそらくは、似たような偶然の産物ではなかったか。
生命の誕生も、その後の進化も、大宇宙の尺度に照らせば、とるにたらない偶発事件とみなせる。
けだし――
現実の日常を覆うのは――
圧倒的に広漠たる虚無性の平原に違いない