心というものは、人間には、どうにも、とらえどころがないために――
様々な学識が色々に説明をしている。
意識と無意識とを分けて構造化したり――
自我と自己とを装置がごとく見立てたり――
最近――
僕は心を、精神と人格との二層構造でとらえてはどうかと、考えている。
心を劇の上演に喩えると――
精神は上演される芝居であり、人格は芝居が紡がれる舞台である。
芝居では、しかるべき俳優たちが、しかるべき台本によって、演技の芸をみせている。
舞台は、それら芝居が滞りなく営まれるための――空間、小道具、大道具、照明、カーテンなどの――装置全般である。
実は、精神医学、心理学の世界では、しばしば、
――意識は舞台である。
などと表現される。
医学生だった頃――
僕は、この話をきいて、
(なるほど!)
と、すっかり合点がいった。
(たしかに、その通りだ!)
と――
だから、心を劇の上演に喩える切り口は、僕のオリジナルなどでは、決してない。
が――
この切り口を、もう少し広げてみたら、面白いのではないか――
ということが、いいたいのである。
意識に限ることはない。
心を劇の上演に喩えてみると――
おぼろげながらも、わかってくることがある。
非形而上学的にいうならば――
心の病に苦しむ人が、よくみえてくるのだ。
精神に障害を抱えているのか――
人格に障害を抱えているのか――
心の病は、大きく分けて二つある。
それぞれに障害の現れ方が違ってくる。
それにしても――
「障害」という言葉は、何とかならないものか――
「精神障害」とか「人格障害」とかいわれると――
ふつうの人は、ビクッとするに違いない。
専門家はビクともしない。
「精神」も「人格」も「障害」も、単なる記号だと思っている。
そのように、自分自身に言い聞かせ、欺いていく。
「故障」というのは、どうであろう。
プロ・スポーツ選手の怪我のことを「故障」といったりする。
――故障者リスト
というものもある。
「精神故障」「人格故障」――
少しは和らぐ表現ではないか。
少なくとも、ムリに「精神失調」とか「人格偏倚(へんい)」とかに言い換えるよりは、多少なりとも、サッパリしていないこともない。
いや――
一緒か。
この種の疑問に答えはない。