何事も――
それを5年、10年、15年と続けていると――
たとえ、それがどんなに表面的な意味しか持っていなさそうな事であっても――
何か重大な真理を示唆しうるものなのです。
例えば、僕は高校生を相手に、もう15年くらい大学受験の数学を教えているのですが――
大学受験の数学なんて、大学に合格するためだけの価値しかないと、世間では思われています。
――あんな勉強をいくらやらせたって、ちゃんとした教育にはならない。
と――
それは、たしかに、その通りなのですが――
でも、それだけで議論を止めてしまうのは、やはり早計なのですね。
たしかに、受験数学の問題それ自体は、それほどの価値はありません。
大学生や大学院生、あるいは第一線で働く研究者たちの視点でみれば、あんなものは子供騙しの域を出ません。
少なくとも、大の大人が朝から晩まで夢中になって考えてもいいような価値はないといってよいでしょう。
が――
そうした問題を、17歳や18歳の高校生たちが、真剣に解こうと思って、頭を捻って考えている現実はあるのです。
どんな大人にも、17歳や18歳の頃はありました。
そして、いま17歳や18歳の高校生たちは、あと20年もしたら、立派な大人なのです。
20年先の未来を見通した上で、目の前の受験数学の問題に、どう取り組むのがよいのか、あるいは、どう取り組ませるのがよいのか――
そうした視点で目の前の受験数学の問題を改めて丹念に観察すると、みえてくることがあるのですね。
例えば、社会に出て20年後に、何か未知の問題に取り組むときにも通用しそうな発想法や思考法が、目の前の受験数学の解法を通して模索できないだろうか、といった切り口です。
そのときに、受験数学の勉強は、「大学に合格するためだけの価値」を超越しうるでしょう。
世の中の真理は、どんなに些末にみえる事柄の中にも潜んでいるはずです。