マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「あたかもサイエンスがスポーツよりダークであるかのような」のイメージ

 15年くらい前の学生時代に、

 ――運動ができるヤツは文句なく凄いと思えるが、勉強ができるヤツは何となく胡散臭いと思える。

 といったような話をきいて――

 未だに、そのことを――
 きのうのことのように覚えています。

 もう少し社会人風の表現にいいかえると、

 ――スポーツの偉業はすぐにでも信じられるが、サイエンスの偉業はにわかには信じがたい。

 とでもなりましょうか。

 あたかもサイエンスがスポーツよりダークであるかのような気がしてきて――
 このいいまわしに、15年前の僕は強い違和感を覚えたのですが――

 あれから15年が経ち、
(いやいや、待てよ……)
 と思うようになっています。

 ――簡単には切り捨てられない真実を含んでいるのでは?

 と考えるようになったのです。

 この「あたかもサイエンスがスポーツよりダークであるかのような」のイメージは――
 いったい、どこに由来するかといえば――

 おそらく――
 スポーツの偉業はメディアの前で即座に確立されることがほとんどであるのに対し――
 サイエンスの偉業は同業の専門家らによる年単位の検証期間が必要とされる点――
 でしょう。

 アスリートは結果を常に潔く受け入れるのが美徳ですが――
 リサーチャーは常に結果を疑い深く見守るのが美徳……とまではいわないにせよ……少なくとも本分であることは確かなのです。

 サイエンスの世界では、通常、業績は、あまたの疑惑を乗り越えて初めて認知されます。

 このことは何を意味するのかといえば――
 サイエンスの世界では、「何となく胡散臭い」とか「疑い深く見守る」といった要素が実は漠然とながらも肯定されている、ということです。

 ちょうど――
 スポーツの世界で、「文句なく凄い」とか「潔く受け入れる」ということが漠然と肯定されているように――

 このことを前提に据えないと、「あたかもサイエンスがスポーツよりダークであるかのような」のイメージを払しょくすることは――
 なかなかに難しいのです。