――生物は散逸構造の一つである。
と、きのうの『道草日記』で述べました。
「散逸構造」とは――
自然界をエネルギーが散り乱れながら流れる時に――
その流れるところの環境や事象に対応して生じる特定の構造を指します。
この構造は、少なくとも見かけ上は、物質の構造として立ち現れます。
海峡の渦潮や洋上の台風が典型です。
生物も、その典型の一つに加えられることがあります。
が――
そうした括りに抵抗感を覚える人も少なくありません。
なぜか――
たしかに、生物は散逸構造の特徴を備えてはいるけれども――
他の散逸構造――渦潮、台風など――とは比べ物にならないほどに精緻で複雑な秩序に司られているようにみえるから――
というのが、その理由です。
つまり――
ということなのですね。
例えば――
生物は生殖を繰り返すことで、世代を連続的に交代させるではないか――海峡で渦潮が断続的に発生したり、洋上で台風が散発的に発生するのとはわけが違う――
と反論することもできそうです。
たしかに――
それは、その通りなのですが――
……
……
僕は――
散逸構造としての精緻さや複雑さをみるときに――
生物と渦潮、台風との間に桁違いの量的差異があることは認められるが――
質的差異があるとまでは認められない――
と考えています。
例えば――
生物の生殖は、これを散逸構造の理論の枠組みで数理的に解析をしようと考えたら、かなり異質な現象に思えるのかもしれませんが――
その「異質」は、現代科学の生殖に対する理解が不十分であることによる“見かけ上の質的差異”ではないか――
と考えています。
現代科学は、生物と無生物との境界を未だに見出せていません。
それは――
そこに質的差異がないことを示唆します。
あるのは、量的差異だけではないか――
……
……
裏を返すと――
今後、散逸構造の研究が進み――
生物と渦潮、台風との間の質的差異が明確に指摘されるようになれば――
その時――
科学は、ゆるぎない自信をもって、生物と無生物との間に境界線を引くでしょう。