マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「野暮」の面白みは「粋」の洒脱さと繋がっている

 ――「野暮」の婉曲性

 について、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 この婉曲性は意外に重要ではないか、と――

 僕は思っています。

 

 とくに、

 ――へりくだりの美徳

 という日本に固有の発想を考えるときに――

 「野暮」が果たしている役割は決して小さくはないように思います。

 

 例えば、

 ――野暮なことを申しました。

 という謝罪や、

 ――私、生来の野暮でして……。

 という謙遜は――

 「野暮」という言葉を用いなくても成立しえますが――

 それでは、いま一つ面白みに欠けるのです。

 

 「野暮」の面白みは、間違いなく「粋」の対義語としての「野暮」に由来しているに違いないでしょう。

 

 よって――

 誤解を恐れずにいえば――

 「野暮」の面白みは「粋」の洒脱さと根本で繋がっているとさえ、いってよいのです。

「野暮」の婉曲性

 ――「上品」は「粋(いき)」ではなく、「野暮」である。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 では――

 ――猥褻(わいせつ)

 は、どうか――

 

 「猥褻」については、2018年10月10日の『道草日記』で述べました。

 「猥褻」とは、

 ――色気と背徳との掛け合わせ

 であると、僕は考えています。

 ただし、ここでいう「背徳」とは、生殖欲求(少し気を利かせるなら「恋」)の関数です。

 数式らしく記せば、

  猥褻 = 色気 × 背徳(生殖欲求)

 となります。

 

 この数式に基づくと――

 「猥褻」は「粋」ではありえません。

 

 「粋」は「色気の嗜(たしな)み」でした。

 「背徳」は「嗜み」には、そぐいません――嗜む人は「背徳」とは無縁です。

 それは、おとといの『道草日記』で述べた「嗜む」の語義を考えれば明らかです。

 

 「猥褻」は「粋」ではありません――「野暮」です。

 

 こうして考えてみると――

 「野暮」というのは実に多様です――「上品」から「猥褻」まで、まったくつかみどころがない――

 

 この「野暮」の多様性は、「野暮」の婉曲性を引き出します。

 

 ――ちょいと、あんた、どこ行くんだい?

 ――なに、野暮用よ。

 というときの「野暮」は、「粋」の対極を指しているのではなく、「野暮」の婉曲性に依っています。

「上品」は「野暮」――

 ――「粋」の対極は「野暮」である。

 ということを――10月31日以来、この『道草日記』で繰り返し述べています。

 

 この「粋」と「野暮」との構造は――

 しばしば直線で――例えば、数直線のような評価軸で――とらえられてしまいがちなのですが――

 僕は、

 (違う)

 と思っています。

 

 (直線的ではなく、平面的ないしは立体的にとらえるのがよい)

 と、僕は思っています。

 

 平面的な構造でも立体的な構造でも、説明の趣旨は同じです――ただ説明の煩雑さが増すだけ――

 よって、以下、平面的な構造でお示しします。

 

 「粋」と「野暮」との構造は、直線的ではありません。

 もし直線的な構造であるならば、「粋」の極みが無限遠方に存することとなってしまいます――これは、僕らの直観に反します。

 そうではなくて――

 

 「粋」と「野暮」との構造は、平面的なのです。

 「粋」の極みは、例えば、複素平面の原点――縦軸と横軸との交わる点――に存します。

 この平面を今、

 ――「粋・野暮」平面

 と呼びましょう。

 「粋・野暮」平面では、「野暮」の極みは無限遠方に存します――そのようにみなしても、僕らの直観には反しません――人は、野暮になら、いくらでもなれます。

 

 以上のように、「粋」と「野暮」との構造を平面的にとらえると、例えば、「上品」と「粋」との関係性がみえてきます。

 

 昭和前期の哲学者・九鬼周造も「上品」と「粋」との関係性を論じました。

 九鬼周造は、「上品」が「下品」の対極であることに留意をし、「粋」と「野暮」との評価軸と「上品」と「下品」との評価軸とをそれぞれ独立とみなしました。

 簡単にいってしまうと、「粋」や「野暮」は色気に関わる価値観であり、「上品」や「下品」は色気に関わらない価値観である、との主張です。

 

 僕は、違う見方をします。

 

 3日前・2日前の『道草日記』で述べたように――

 「粋」は、

 ――色気の嗜(たしな)み

 です。

 

 もちろん、「上品」が色気に関わらない価値観であることは、その通りです。

 よって、「上品」は「粋」ではありません――「粋」ではないので、「上品」は「野暮」です。

 

 もちろん、「下品」も「粋」ではありません。

 が、「下品」の場合は、「色気」が関わらないから「粋」でないのではなく、「嗜み」を欠いているから「粋」ではないのです。

 

 つまり、「上品」も「下品」も、「粋・野暮」平面の原点から離れていて、その離れ方は異なるのですが、たんに離れているという理由で、どちらも「野暮」なのです。

 

 よって――

 繰り返します。

 

 ――「上品」は「野暮」――

 です。

粋は自覚されるのではなく他覚される

 ――粋(いき)

 とは、

 ――色気の嗜(たしな)み

 である、ということを――この『道草日記』で連日、述べております。

 

 このことに関し、ぜひとも指摘しておきたいことは、

 ――粋は決して自覚されえない。

 ということです。

 

 例えば、誰かの様子をみて、

 ――ああ、彼は実に粋だなぁ。

 とか、

 ――なんて粋な女性なんだ。

 と感じられることはあっても、

 ――オレは粋だ。

 とか、

 ――粋なアタシ!

 と思うことはありえない、ということです。

 もし、そういうことを思うのであれば、それは絶対に「粋」ではありえない――それは、たぶん「粋」以外の何かです。

 

 粋は自覚されることではなく――

 他覚されることです。

 

 このことは、粋が色気をまとっているからでしょう。

 

 きのうの『道草日記』で、

 ――「粋」に芯があるとすれば、それは「嗜み」である。

 と述べましたが――

 その芯を包み込んでいるのは、

 ――色気。

 です。

 

 自分の色気は――もし、本当に色気があるとしても――決して自覚できません。

 人は、誰か他の人の色気しか、感じとることはできないです。

粋、女優、裸の人体

 ――粋(いき)

 とは、

 ――色気の嗜(たしな)み

 である、と――きのうの『道草日記』で述べました。

 

 私見です。

 どれほどの賛同が得られるかは、わかりません。

 

 ……

 ……

 

 ――「粋」とは「色気の嗜み」である。

 というときに――

 もちろん――

 その比重は、あきらかに「嗜み」にあります。

 

 つまり、「粋」に芯があるとしたら――

 それは「嗜み」です。

 

 ――嗜む。

 には、様々な意味があります。

 ――好んで親しみ、励む。

 ――慎み、気をつける。

 ――あらかじめ心がけておく。

 ――見目を端正に整える。

 

 なかなか一言では表せえない複雑な概念です。

 

 例えば――

 女優は粋です。

 

 が――

 TVのニュース番組の女性司会者は、仮に女優のような魅力を放っていても、通常、粋ではありません――色気を嗜む役割は負っていないはずだからです。

 

 あるいは――

 

 裸の人体に粋は宿りえます。

 

 が――

 裸の人形――本物の人体を精緻に模した人形――には、粋は宿りえません――人形には主体がないから――つまり、色気を嗜むはずがないから――です。

九鬼周造の「粋」が物語っていること

 九鬼周造の「粋(いき)」は、

  色気

  勝気

  心得

 の3つの要素から成ると理解し得る、ということを――きのうの『道草日記』で述べました。

 

 もちろん、

 ――色気

 とは、「あからさまな色気」ではなく、

 ――滲み出る色気です。

 

 また、

 ――勝気

 とは、「周囲に撒き散らす勝気」ではなく、

 ――内に秘めた勝気

 であり、

 ――心得

 とは、「理屈を積み上げた心得」ではなく、

 ――体験に根差した心得

 です。

 

 いずれも一定の人生経験を糧としない限り、容易には獲得し得ない性質であろうと思います。

 

 九鬼周造の素晴らしかった点は、この、

 ――粋

 という日本固有の概念――曖昧模糊としていて雲をつかむような概念――を、西欧の哲学的な手法を用いて質そうとしたことです。

 

 九鬼周造が昭和前期に質してくれたからこそ――

 今日の僕らは、「粋」の概念を正しく把握することの意義を知ることができている――

 

 それは、おそらくは、西欧の哲学的な手法だけを用いていたのでは、十分には把握できそうにないのですが、それでも――

 把握しようとする営みに価値があることは十分に伝わっている――

 

 九鬼周造の「粋」は、

 ――哲学で重要なのは、答えではない。問いである。

 ということの意味を雄弁に物語っています。

 

 ちなみに――

 

 僕個人は、

 ――粋

 とは、

 ――色気の嗜(たしな)み

 である、と――理解をしております。

 

 色気をただ楽しんでいたり、色気に振り回されたりしているのではなく、色気を嗜んでいるときに――

 その人は、

 ――粋

 なのです。

色気、勝気、心得

 昭和前期の哲学者・九鬼周造は、論文『「いき」の構造』の中で、「粋(いき)」が次の3つの要素から成ることを指摘しました。

  媚態

  意気地

  諦め

 です。

 

 何のことか、ちょっとわかりづらいと思います。

 

 同じ論文の中で、

 ――垢抜して張りのある色っぽさ

 と、まとめている箇所があるところから、それぞれ、

  媚態:色っぽさ

  意気地:張りのあるさま

  諦め:垢抜けたさま

 と言い換えてよいでしょう。

 

 それでも、「媚態:色っぽさ」以外は、ちょっとわかりづらい――

 

  媚態:色っぽさ

 というのは、よくわかります。

 要するに、

 ――色気

 でしょう――これは、よい――

 

  意気地:張りのあるさま

 というのは、

 ――犯すべからざる気品・気格

 あるいは、

 ――媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識

 とも言い換えています。

 よって、

 ――勝気

 のことでしょうか。

 

 また、

  諦め:垢抜けたさま

 というのは、

 ――運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心

 あるいは、

 ――あっさり、すっきり、瀟洒(しょうしゃ)たる心持

 とも言い換えています。

 よって、

 ――心得

 のことでしょうか。

 

 九鬼周造の「粋」は、

  色気

  勝気

  心得

 の3つの要素から成っていると、僕は理解しています。

 言い換えると、

 ――色気のない「粋」は野暮である。

 ――勝気でない「粋」は野暮である。

 ――心得のない「粋」は野暮である。

 ということです。

「粋」を学問の対象にするということは

 ――「粋(いき)」も「野暮(やぼ)」も感性の問題である。

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――感性の問題である。

 とは、つまりは、

 ――主観でしか捉えられない。

 ということです。

 

 こう述べると、

 ――では、「粋」も「野暮」も誰かの思い込み、あるいは錯覚・幻覚に過ぎないというのか。

 と訝る向きもありますが――

 その疑念は当たりません。

 

 ――主観でしか捉えられない。

 とは、

 ――間主観では捉えられる。

 ということです――「間主観」とは、他者の視点を慮った上で成立しうる概念であり、他者の視点を介した主観のことです――間主観は他者の数だけ存在しえます。

 これら間主観の数々が主観を支持することで客観らしき視点の存在が想定されていると考えられます――現代哲学の方法論の一つである現象学の考え方です。

 

 きのうの『道草日記』で触れた哲学者・九鬼周造は、「粋」を現象学的に論考しています。

 「粋」が主観でしか捉えられない現象ないし性質であることを受け入れれば、当然の発想です。

 

 誤解を恐れずにいえば――

 九鬼周造が論考した「粋」は、あくまで九鬼周造自身の粋です――もちろん、その粋は、数々の間主観によって幾重にも支持されていたはずであり、九鬼周造の思い込みや錯覚・幻覚ではありません。

 

 誰もが、自分自身の粋をもっています。

 九鬼周造九鬼周造自身の粋を――あなたはあなた自身の粋を――僕は僕自身の粋を――もっています。

 「粋」という概念を全く知らない非日本語圏の人も、その概念を習得すれば、その人なりの粋をもつようになります。

 

 これらの「粋」は、互いに異なる現象ないし性質には違いありませんが、何らかの共通要素は見出せるはずで――

 その共通要素は多分に最大公約数的なもので、個々の粋の豊かさを表象しうるものでは到底ありません。

 

 「粋」を学問の対象にするということは、その“最大公約数”を見出しにいくという営みです。

 「粋」を学問の対象にすることが野暮となるのは、つまりは、そういうことであるから――例えば、幾つもある10桁くらいの整数について、それら整数の最大公約数が僅か2~3桁であるにも関わらず、それをあえて指摘するようなことであるから――です。

「粋」も「野暮」も感性の問題

 ――恋愛と芸術とは「粋(いき)」や「野暮(やぼ)」で通底している。

 と、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 繰り返しますが、

 ――粋

 の対義語が、

 ――野暮

 です。

 よって、しばしば、

 ――「粋」とは何かを考えたり語ったりすることは野暮の極みである。

 などといわれますが――

 当然ながら、論理的には、

 ――「野暮」とは何かを考えたり語ったりすることもまた野暮の極みである。

 という帰結にもなりえます。

 

 何がいいたいかというと――

 要するに、

 ――「粋」も「野暮」も感性の問題であって、しょせんは理性(正確には「悟性」)の及ぶところではない。

 ということです。

 

 「粋」にせよ「野暮」にせよ――

 それらを考えたり語ったりするという営みは、結局は、感性を理性として捉えようとする、

 ――無理筋

 の試みである――

 ということです。

 

 もちろん、「『粋』とは何かを考えたり語ったりすることは野暮の極みである」というのは、修辞としては大変に結構です。

 が、それは「『野暮』とは何かを考えたり語ったりすることは野暮の極みである」といっているに等しく、要するに、「感性を理性として捉えることは誤りである」といっているにすぎません。

 

 広く知られているように――

 「粋」については、昭和前期の哲学者・九鬼周造が論考を残しています。

 

 九鬼周造は、

 ――「粋」とは何かをあえて考え、語る、という野暮の極み

 を実践した人ですが――

 九鬼周造自身は、つねに粋な生き方を志向していた、といわれます。

 

 九鬼周造の「粋」についての論考を堪能しようと思ったら、九鬼周造自身の粋の感性の中身を想像することが必要です。

 そうすることなしに、九鬼周造の「粋」についての論考に触れても、得られる知見は乏しいに違いありません。

 ――九鬼周造が「粋」についての論考で示しえたことは、「粋」を論考の対象に据えてしまうと、たとえ九鬼周造ほどの粋な人物であっても、野暮へと不可避的に陥ってしまう、という知見くらいだ。

 という結論になってしまいます。

 それは、その通りかもしれませんが――

 

 でも――

 ここに九鬼周造の学者としての矜持が潜んでいたと、僕は考えます。

 

 ――「粋」を学問の対象とすることで、「粋」は台無しになるけれども、それが学問という営みの本質であるならば、致し方ない。

 という達観の境地ではなかったかと想像します。

 

 このことは「粋」についてだけではなく、「野暮」についてもいえますし――

 また――

 恋愛や芸術についてもいえます。

「粋」や「野暮」で通底している

 ――恋愛と芸術とは相性が良い。

 と、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 少し違った視点から考えてみましょう。

 

 恋愛も芸術も、どちらも、

 ――粋(いき)

 と、

 ――野暮(やぼ)

 という2つの視点から考えることができます。

 「粋」も「野暮」も、日本の江戸期に成立した概念と考えられています――日本語圏に特有の美意識とみなされることが多いようです。

 

 「粋」の対義語が「野暮」です。

 よって、

 ――「粋」と「野暮」との2つの視点

 というよりは、

 ――「粋」から「野暮」への1本の評価軸

 というほうが正確かもしれません。

 

 「粋」や「野暮」を語る上、しばしば用いられる言い回しは、

 ――「粋」とは何かを考えたり語ったりすることは野暮の極みである。

 というものです。

 つまり、「粋」という概念は、それを言葉で定義しようとする発想それ自体の対極に位置づけられている、ということです。

 いってみれば、

 ――「粋」とは何か。それは、わかる人にはわかる。

 ということです。

 

 ――わかる人にはわかる。

 これは芸術に典型的な性質でした――きのうや5日前の『道草日記』で述べた通りです。

 つまり、“「粋」から「野暮」への評価軸”は、「芸術の評価軸そのもの」とはいえないまでも、かなり、それに似た評価軸といえます。

 

 一方――

 「粋」も「野暮」も、元来は、男女の恋愛の営みから生まれた概念であると考えられています。

 

 江戸期、異性の色気が洗練されている様子を、

 ――粋だね。

 と評したりしていたようです。

 

 つまり、“「粋」から「野暮」への評価軸”は、「恋愛の評価軸の全て」とはいえないまでも、「数ある恋愛の評価軸の中の重要な1本」ということはできます。

 

 このように――

 恋愛と芸術とは「粋」や「野暮」で通底しているといってよいでしょう。