マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

内科・外科――求められる医療が本質的に違う

 ――内科本道(ほんどう)、外科外道(げどう)――

 の歴史的背景として、

 ――医学・医療では、病気を治すことが主流であり、怪我を治すことは傍流であるとみられてきた経緯がある。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 要するに――

 ――医者らしい仕事

 といえる医療は、少なくとも歴史的には、内科であり――

 そうでないのが外科である――

 ということです。

 

 ――医者らしい仕事

 というのは、

 ――医者なんて誰でもできるさ。よくわからない薬をもっとよくわからない体に入れて病を治そうっていうんだから――

 という笑い話に象徴をされるように、

 ――よくわからない・よくわかる

 の話が本質です。

 

 この話は、 

 ――知恵

 の有無であり――

 それは、

 ――納得

 の対象であって――

 ――共感

 にもとづく――

 ということを、おとといの『道草日記』で述べました。

 

 一方――

 外科は、6月26日の『道草日記』で述べたように、

 ――技術

 がものをいう医療です。

 

 それは、

 ――知恵

 と違って、

 ――納得

 の対象ではなく、

 ――理解

 の対象であり――

 ――共感

 にもとづくのではなく、

 ――感嘆

 をもたらす――

 ということは、おとといの『道草日記』で述べた通りです。

 

 よって、

 ――内科本道、外科外道――

 の語句は、

 ――医療の本質は、“共感にもとづく知恵”であり、“感嘆をもたらす技術”ではない。

 という発想を伝えていることになります。

 

 あえて「本道」とか「外道」とかいった価値観から自由になっていえば、

 ――内科では“共感にもとづく知恵”が本質であり、外科では“感嘆をもたらす技術”が本質である。

 となります。

 

 さらに、いいかえれば、

 ――内科では“共感にもとづく知恵”を示す必要があり、外科では“感嘆をもたらす技術”を施す必要がある。

 となるでしょう。

 

 つまり、

 ――内科と外科とでは患者から求められる医療が本質的に違う。

 ということです。