いわゆる、
――持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals, SDGs)
については――
あえてハッキリといえば――
僕は懐疑的です。
少なくとも、
(その方向性は間違っている可能性が無視できない)
と考えています。
きのうまでの『道草日記』で述べてきたことを繰り返しますと、
――持続可能な開発目標
の意義は、
――人の社会の“寿命”が、あとどれくらい残されているかにかかっている。
といえます。
すなわち、
――持続可能な開発目標
という目標は――
人の社会が10万年くらい前に誕生をしているとみなす場合には――
もし、人の社会の“寿命”が1,000万年くらいであるのなら、達成をしても達成をしなくても、どちらでもよいような目標であると考えられ――
もし、人の社会の“寿命”が10万年くらいしかないのなら、すでに手遅れになっている目標であると考えられ――
もし、人の社会の“寿命”が100万年くらいであるのなら、辛うじて意義を見出せる目標であると考えられる――
ということです。
もちろん――
ここに示した数値は仮のものです。
人の社会の誕生をいつと考えるかによって、「1,000万年」とか「10万年」とか「100万年」とかいった数値は変わってきます。
が――
これら数値が変わったところで、問題の本質は変わりません。
つまり、
――持続可能な開発目標
は、意義のある目標かもしれませんが、その保証は全くない――
ということです。
では、
――持続可能な開発目標
には優れたところが何もないのかというと――
そうではありません。
――持続可能な開発目標
の優れたところは――
何といっても、
――国連総会で採択をされた。
という点にあります。
このことは、
――持続可能な開発目標
が、
――地球に暮らす全ての人たちの総意
と、曲がりなりにも、みなしうることを示しています。
――持続可能な開発目標
は、内容が間違っているかもしれない――
が――
実際に内容が間違っているか間違っていないかについては、少なくとも21世紀序盤の現代においては、誰にもわからない――
それならば――
この目標が、
――地球に暮らす全ての人たちの総意
とみなしうる点を画期的とみなし、肯定的に受け入れていこうではないか――
そういう話です。
実際のところ、
――地球に暮らす全ての人たちの総意
とみなしうる内容が、
――持続可能な開発目標
として言葉で明示をされたことは――
実に画期的なことであった、と――
僕は思います。
先進国も発展途上国も一応は同意をしうる――あるいは、民主主義国家も権威主義国家も一応は同意をしうる――
そういう目標が、具体的な文言として、ひとまずは表現をされえた――
ということは、大いに評価をされてよいでしょう。