マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“持続可能な開発目標”が抱える問題の本質

 2015年の国連総会で採択をされた、

 ――持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals, SDGs

 は、社会という生態における、

 ――不衰不滅(ふすいふめつ)

 ないし、

 ――全憂根絶(ぜんゆうこんぜつ)

 の発想に依っている――

 ということを、4月30日および5月17日の『道草日記』で繰り返し述べました。

 

 が――

 そもそも、

 ――全憂根絶

 が成し遂げられれば、

 ――不衰不滅

 も成し遂げられる、と――

 考えるのは誤りです。

 

 ――不衰不滅

 と同義なのは、

 ――汎憂根絶

 のほうであって――

 それを成し遂げるには、

 ――自我の統合

 つまり、

 ――たった1つの自我によって構成をされる生態を作り上げること

 が必要です。

 

 それは、1 億 ~ 3 億年後には可能かもしれませんが――

 さしあたり、今世紀中には絶対に無理でしょう。

 

 よって、

 ――汎憂受容(はんゆうじゅよう)

 の発想が必要になるのですね。

 

 ――持続可能な開発目標

 を論じる際には――

 こうした視点が欠かせない、と――

 僕は考えています。

 

 が――

 実際には、

 ――持続可能な開発目標

 は、少なくとも2015年の時点では、

 ――全憂根絶

 の発想です。

 

 ただし――

 この発想の実行が大変に困難であるということは、

 ――持続可能な開発目標

 に関心をもつ人たちの多くが、よくわかっています。

 

 よって、

 ――中途半端な“全憂根絶”であっても、まあ、仕方がない。

 との諦念が、

 ――持続可能な開発目標

 の周りには渦巻いているのです。

 

 この諦念は、

 ――汎憂受容

 の発想と似ています。

 

 が――

 似て非なる発想です。

 

 ――中途半端な“全憂根絶”

 と、

 ――汎憂受容

 とは別の概念です。

 

 ――持続可能な開発目標

 の周りでは――

 これら2つの概念が、しばしば混同をされています。

 

 これこそ、

 ――持続可能な開発目標

 が抱える問題の本質です。