マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“汎憂受容”の発想は誤解をされやすい

 個体の次元における、

 ――汎症受忍(はんしょうじゅにん)

 の発想に準(なぞら)えて――

 生態の次元における、

 ――汎憂受容(はんゆうじゅよう)

 の発想というものについて――

 おとといの『道草日記』で述べました。

 

 あらためて述べ直しますと――

 

 ……

 

 ……

 

 現代の医学・医療や自然科学の知見に基づく限り――

 自分たちの個体を有機物から無機物へ作り替えることは不可能そうに思えます。

 

 それゆえに、

 ――全症根治(ぜんしょうこんち)

 から、

 ――汎症根治(はんしょうこんち)

 を経て、

 ――汎症受忍(はんしょうじゅにん)

 へ至る諦念が必然であるように思われるのです。

 

 同様に――

 

 現代の社会科学や自然科学の知見に基づく限り――

 単数の自我で構成をされる生態を作り上げることは不可能そうに思え――

 それゆえに、

 ――全憂根絶(ぜんゆうこんぜつ)

 から、

 ――汎憂根絶(はんゆうこんぜつ)

 を経て、

 ――汎憂受容(はんゆうじゅよう)

 へ至る諦念も、また必然であるように――

 僕には思えます。

 

 ただし――

 

 ――汎憂受容

 の発想は――

 誤解をされやすいと、いえるでしょう。

 

 この発想は――

 例えば、

 ――貧困

 とか、

 ――教育の質の低下

 とか、

 ――ジェンダーの不平等

 とかいった社会問題を受け入れ、認め容(い)れる――

 という発想です。

 

 よって、

 ――結局は、それら社会問題を放っておくことに等しい。

 との批判は避けられません。

 

 実際には――

 放置ではなくて――

 

 例えば――

 なぜ、

 ――貧困

 とか、

 ――教育の質の低下

 とか、

 ――ジェンダーの不平等

 とかいった社会問題が生じるのかを突き詰めて考える結果――

 それらは、社会という生態が複数の自我によって構成をされていることに起因をしているのであって――

 これら社会問題に苦しみ、悩まされるかどうかは――

 結局は、自分の自我が、どの個体に生じたかで決まっているに過ぎない――

 ということなのです。

 

 つまり――

 社会問題の全ては究極的には運・不運の問題である、と――

 

 ……

 

 ……

 

 ただし――

 ここで話を終わりにしてしまえば――

 それは、社会問題の放置に他なりません。

 

 放置は、よくない――

 

 そういう話です。

 

 ……

 

 ……

 

 たしかに――

 問題の本質は、運・不運にある――

 

 が――

 それは――

 放っておいたら――

 必ずや公平・不公平の問題に置き換わる――

 

 それを避けるには――

 運に恵まれた自我が、恵まれなかった自我に対し、どこで何を譲るかを真剣に考えることが必要である――

 

 これが、

 ――汎憂受容

 の発想です。

 

 受容をするのは、あくまで、

 ――運・不運

 であって――

 これに伴う、

 ――公平・不公平

 まで受容をするということでは、決してないのです。