マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“汎症受忍”や“汎憂受容”は重要かもしれないが……

 ――汎症受忍(はんしょうじゅにん)

 にセンスが要るように、

 ――汎憂受容(はんゆうじゅよう)

 にもセンスが要る――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 あらためて記しますと――

 

 ――汎症受忍

 とは、

 ――あらゆる病気の症状の原因を受け入れ、それら症状を耐え忍んでいくこと

 で、

 ――汎憂受容

 とは、

 ――あらゆる浮世の内憂の原因を受け入れ、それら内憂を認め容(い)れること

 です。

 

 見落とせないのは――

 ここでいう「症」ないし「症状」とは、

 ――患者という個体が覚える主観的な不具合

 のことで――

 ここでいう「憂」ないし「内憂」とは、

 ――社会という生態が抱える必然的な不都合

 のことです。

 

 ――症

 も、

 ――症状

 も、一義的には個体が発する信号であり、個体の維持のためには即座に対応を要する問題であり――

 

 ――憂

 も、

 ――内憂

 も、一義的には生態に起こる争乱であり、生態の維持のためには即時に解決を要する問題であるのです。

 

 そういう問題を、

 ――ただ黙って受け入れよう。

 という話ですから――

 

 ――汎症受忍

 も、

 ――汎憂受容

 も、いま一つ知的好奇心を刺激しえない発想――知的興奮を呼び覚ましえない発想――といえるでしょう。

 

 少なくとも、10代や20代の人たちには、

 ――何ら価値を見出せない発想

 と感じられるのではないでしょうか。

 

 僕は今、40代後半ですが――

 10代や20代の頃に、

 ――汎症受忍

 や、

 ――汎憂受容

 の発想を見聞きしても――

 

(くだらん)

 と、鼻で笑っていたと思います。

 

 そういう発想よりは、

 ――汎症根治(はんしょうこんち)

 や、

 ――汎憂根絶(はんゆうこんぜつ)

 のほうが、ずっと知的好奇心を刺激しやすいし、知的興奮を呼び覚ましやすい――

 

 つまり、

 ――自分たちの個体を有機物から無機物に作り替える。

 とか、

 ――たった1つの自我で構成をされる生態を作り上げる。

 とか――

 

 ――汎症受忍

 や、

 ――汎憂受容

 は、重要かもしれませんが――

 そんなに魅力的ではありません。