マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“汎症根治”や“汎憂根絶”は現実的な発想ではない――ただし……

 ――汎症受忍(はんしょうじゅにん)

 や、

 ――汎憂受容(はんゆうじゅよう)

 の発想は――

 重要かもしれないが――

 そんなに魅力的ではない――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 そんなに魅力的ではないので――

 これら発想が嬉々として語られることは、まず、ない――

 といってよいでしょう。

 

 それよりも嬉々として語られやすいのは、

 ――汎症根治(はんしょうこんち)

 や、

 ――汎憂根絶(はんゆうこんぜつ)

 の発想であり――

 これら発想は、語る側にとっても、大いに楽しめるのです。

 

 だって――

 面白いですよね。

 

 ――自分たちの個体を有機物から無機物に作り替える。

 とか、

 ――たった1つの自我で構成をされる生態を作り上げる。

 とかいった話のほうが――

 

 ――あらゆる病気の症状の原因を受け入れ、それら症状を耐え忍んでいくこと

 とか、

 ――あらゆる浮世の内憂の原因を受け入れ、それら内憂を認め容(い)れること

 とかいった話よりも面白い――

 

 ……

 

 ……

 

 とはいえ――

 

 少なくとも――

 僕個人は、

 ――汎症根治

 や、

 ――汎憂根絶

 の発想よりも、

 ――汎症受忍

 や、

 ――汎憂受容

 の発想のほうが――

 重要であると感じています。

 

 なぜならば――

 

 ――汎症根治

 や、

 ――汎憂根絶

 よりも、

 ――汎症受忍

 や、

 ――汎憂受容

 のほうが現実的な発想であるからです。

 

 ――汎症根治

 や、

 ――汎憂根絶

 は、

 ――汎症受忍

 や、

 ――汎憂受容

 よりも、ずっと魅力的で、面白い発想ではありますが――

 残念ながら――

 まったく現実的な発想ではないのですよね。

 

 はっきりいえば――

 虚構的な発想です。

 

 よって、

 ――汎症根治

 や、

 ――汎憂根絶

 は、物語の主題としては、それなりに現実的な発想といえるでしょう。