マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“全憂根絶”から“汎憂根絶”を経て“汎憂受容”へ

 ――“銀河文明”を築き上げる知的生命体は、個体の次元で“汎症根治(はんしょうこんち)”や“不老不死”を成し遂げていて、生態の次元で“汎憂根絶(はんゆうこんぜつ)”や“不衰不滅(ふすいふめつ)”を成し遂げている。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 そんな彼らは――

 僕らより、1 億 ~ 3 億年以上、先を進んでいることになるのですが――

 

 当然のことながら――

 以上の結論は、荒唐無稽ともいえる仮定を幾つも積み重ねた結果、ようやく得られる結論であり、

 ――実際に、そこまで進めるものなのか。

 あるいは、

 ――仮に、そこまで進めるものだとして、僕ら人も、実際に、そこまで進めるのか。

 との問いは決して忘れてはいけません。

 

 僕は――

 5月14日の『道草日記』で、

 ――“全症根治(ぜんしょうこんち)”から“汎症根治(はんしょうこんち)”を経て“汎症受忍(はんしょうじゅにん)”へ至ることの意義

 に触れました。

 

 ――汎症根治

 あるいは、

 ――不老不死

 を成し遂げるには、人は、無機物の個体を手に入れることが必要であるが――

 そんなことは、少なくとも21世紀序盤の自然科学や科学技術の知見を基づく限り、不可能そうであるから、

 ――汎症受忍

 の諦観へ至るのがよい――

 という主旨です。

 

 同じことは、

 ――汎憂根絶(はんゆうこんぜつ)

 あるいは、

 ――不衰不滅(ふすいふめつ)

 についても、当然ながら、いえるわけでして――

 

 僕は、生態の次元で、個体の次元における、

 ――汎症受忍

 に相当をする概念は、

 ――汎憂受容(はんしょうじゅよう)

 であろうと考えています。

 

 つまり――

 仮に、無機物の個体を手に入れて、

 ――汎症根治

 あるいは、

 ――不老不死

 を成し遂げたとしても、

 ――汎憂根絶

 あるいは、

 ――不衰不滅

 を成し遂げるには、人は、自我の統一を果たすことが必要であるが――

 そんなことは、少なくとも21世紀序盤の自然科学や科学技術の知見を基づく限り、不可能そうであるから、

 ――汎憂受容

 の諦観へ至るのがよい――

 ということです。

 

 ――汎憂受容

 とは、

 ――あらゆる浮世の内憂の原因を受け入れ、それら内憂を認め容(い)れること

 です。

 

 ――汎憂受容

 は、

 ――汎症受忍

 と同じように、平凡な発想ではありますが――

 

 ――全憂根絶

 から、

 ――汎憂根絶

 を経て、

 ――汎憂受容

 に至る経緯は決して平凡ではありません。

 

 ――汎憂受容

 は、単数の自我から構成をされる生態の可能性も視野に入れた上での諦観です。