マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“持続可能な開発目標”は医学・医療の発想を抜きには語れない

 ――“持続可能な開発目標”が真に目指せるのは、“汎憂受容(はんゆうじゅよう)”である。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――汎憂受容

 とは、6月8日の『道草日記』で述べた通り、

 ――あらゆる浮世の内憂の原因を受け入れ、それら内憂を認め容(い)れること

 です。

 

 この諦観は――

 個体の次元における、

 ――汎症受忍(はんしょうじゅにん)

 を、生態の次元に引き上げたものです。

 

 ――汎症受忍

 とは、

 ――あらゆる病気の症状の原因を受け入れ、それら症状を耐え忍んでいくこと

 です。

 

 ここで注目に値をするのは、

 ――個体の次元のほうが、生態の次元より、理解がしやすい。

 という経験則です。

 

 つまり、

 ――汎憂受容

 の理解には、

 ――汎症受忍

 の理解が欠かせない――

 ということです。

 

 いうまでもなく、

 ――汎症受忍

 は、医学・医療の発想に由来をします。

 

 今日の医学・医療の主流を占める発想とは必ずしもいえませんが、

 ――汎症根治(はんしょうこんち)

 や、

 ――不老不死

 の難しさ――

 つまり、

 ――自分たちの個体を有機物から無機物に作り換えること

 の難しさを考えたときに――

 将来、ほぼ確実に主流になると考えられる発想です。

 

 よって――

 きょうの『道草日記』の冒頭で掲げた命題、

 ――“持続可能な開発目標”が真に目指せるのは、“汎憂受容”である。

 との命題から、

 ――“持続可能な開発目標”は医学・医療の発想を抜きには語れない。

 との示唆が得られます。

 

 ――持続可能な開発目標

 は――

 人が、いかに生まれ、いかに老い、いかに病み、いかに死んでいくかを詳細に診(み)た上で――あるいは、詳細に観(み)た上で――この問題の本性を真摯に感じ、その本質を真剣に考えない限り、

 ――ただのお題目

 で終わります。