マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

能動SETI――どれほどの意義があるのか

 ――能動(active)SETI(Search for Extra Terrestrial Intelligence)

 は、

 ――地球外知的生命体はいない。

 と仮定をして行う分には、十分に自然科学的な活動である――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 が――

 実際には、幾つかの深刻な問題を抱えています。

 

 ――能動SETI

 を試みる場合に――

 妥当性の判定の対象となる仮定は、

 ――地球外知的生命体はいない。

 です。

 

 よって――

 地球からの発信は、

 ――もし、地球外知的生命体が本当にいたら、ほぼ確実に受信をされ、返信をされるような発信であること。

 が必要です。

 

 が――

 現在の僕らの科学技術では、そのような発信は無理であると考えられています。

 

 発信の出力や精度の問題から、

 ――ひょっとしたら、受信をされるかもしれない。

 くらいの見込みしかないのです。

 

 よって、

 ――その程度の発信を行う意義が、どれほどあるのか。

 との疑問が湧きます。

 

 そのような発信であれば――

 仮に、返信がなかったとしても、

 ――地球外知的生命体はいない。

 という仮定の妥当性を示すことにはならないからです。

 

 より深刻な問題は――

 能動SETIに熱心な人たちが、

 ――地球外知的生命体はいない。

 という仮定ではなく、

 ――地球外知的生命体はいる。

 という仮定をもうけているように思われることです。

 

 能動SETIを試みる意義として、しばしば語られるのは、

 ――仮に、この宇宙に幾つも地球外知的生命体がいたとしても、我々・地球上知的生命体も含め、全ての知的生命体が、受信だけを考え、発信を怠っていたら、通信が成功をするわけはない。

 という見解です。

 

 これは、

 ――地球外知的生命体はいる。

 と仮定をして、

 ――地球が知的生命体はいる。

 ということの証明を試みているという点で――

 非自然科学的な主張です。

 

 別に非自然科学的であっても全く問題はないのですが――

 そうであるにも関わらず――

 さも、

 ――自然科学的である。

 といった体裁を装うのは、道義的に問題があるといえます。