マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

身体を司る原理や身体を成す素材は同じ

 ――地球外知的生命体が我々とは全く異なる精神や身体をもっているかもしれない可能性

 について考えるときに必要な4つの場合、

 

 1)精神も身体も僕らと全く異なる

 2)精神は僕らと全く異なるが、身体は僕らと殆ど同じである

 3)精神は僕らと殆ど同じであるが、身体は僕らと全く異なる

 4)精神も身体も僕らと殆ど同じである

 

 のうち、

 ――オッカムの剃刀(Occam's razor)

 によって、あっさりと削ぎ落とされうるのは、1)3)の可能性のみである――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 つまり、2)4)は、

 ――オッカムの剃刀

 を免れうる――

 ということです。

 

 要するに、

 ――地球外知的生命体が存在をするならば、その精神はともかく、その身体は、たぶん僕らと殆ど同じである。

 ということですね。

 

 よって、

 ――地球外知的生命体が我々とは全く異なる精神や身体をもっているかもしれない可能性

 については、考える意義が殆どない――

 という結論になります。

 

 ――少なくとも身体は、僕らと殆ど同じであろう。

 と――

 

 ……

 

 ……

 

 このことは――

 地球外知的生命体が、僕らと同じような手足をもち、胴体をもち、頭をもっている――

 ということを直ちに意味するわけではありません。

 

 あくまでも、身体を司る原理や身体を成す素材が同じというだけのことであり――

 例えば、手足が6本あったり、頭が3つあったり、手足が頭から直に生えていたとしても、とくに驚くには能(あた)いません。

 

 あるいは――

 その身体の内部で起こっている代謝が、例えば、酸素を必要としなくても、何ら不思議ではないのです。

 

 が――

 もし、手足や頭などを含む身体それ自体が備わっていなければ、それは驚きですし――

 身体はあっても、その内部で代謝それ自体が起こっていなければ、それは不思議です。

 

 要するに――

 これまでに地球上で生息をした生命体の身体にみられる多様性の延長にあるような特徴であれば、それが、たとえ、どんなに奇抜な特徴であっても、とくに驚きでも不思議でもないのですが――

 これまでに地球上で生息をした生命体の身体に例外なく認めれた特徴が全く存在をしなければ、それは、驚きであり不思議でもあるのです。

 

 ただし――

 いうまでもなく――

 

 そのような驚きや不思議に満ちた地球外知的生命体が、この宇宙のどこかに存在をしうる――

 との仮定は、

 ――オッカムの剃刀

 によって、あっさりと削ぎ落とされる――

 ということは、常に念頭に置いておくのがよいでしょう。