――この宇宙に地球外知的生命体が幾種も存在をしているならば、その精神も身体も、これまでに唯一、知られている知的生命体――つまり、僕ら自身――と殆ど同じと仮定をすることが、最も妥当である。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
それ以外の仮定は――
その必要性の要請が明らかではないからです。
いわゆる、
――オッカムの剃刀(Occam's razor)
の方針です。
ところで――
……
……
おとといの『道草日記』で――
僕は、
――知的生命体
という観念ないし存在を、思いきって、
――知性
と、
――生命
との2つの要素に分けました。
また――
きのうの『道草日記』では、
――僕らは、ただ一種の知的生命体しか知らない。
とも述べました。
実は、
――知的生命体
の2つの要素である“知性”と“生命”とのうち――
僕らが、ただ一種しか知らないのは、
――生命
のほうだけです。
――知性
については――
本当の意味で「一種しか知らない」とはいいきれません。
ヒトの知性と同じ尺度で評価をしうる知性は「一種しか知らない」つまり「ヒトの知性しか知らない」というだけであり――
実際には、ヒトの知性とは全く異なる尺度で評価をしなければならない知性は、この地球上にも数多く存在をしているかもしれないのです。
ヒト以外の哺乳類の知性――オランウータンやイルカの知性――あるいは、六脚類の昆虫の知性、あるいは、鳥類の知性が、ヒトの知性と比べて無視ができるくらいに些末な知性であると、なぜ、いえるでしょうか。
これらの知性をヒトの知性と同じ尺度で評しようとするから「些末」に感じられるのであって――
もし、彼らの知性の尺度で評したら、ヒトの知性も、実は「些末」に感じられるのかもしれないのです。
つまり、
――オッカムの剃刀
が威力を発しうるのは、
――生命
の要素のみ――
ということです。
――知性
の要素については、大いに怪しい――
よって――
おとといの『道草日記』で述べた、
――地球外知的生命体が我々とは全く異なる精神や身体をもっているかもしれない可能性
について考えるときに必要な4つの場合、
1)精神も身体も僕らと全く異なる
2)精神は僕らと全く異なるが、身体は僕らと殆ど同じである
3)精神は僕らと殆ど同じであるが、身体は僕らと全く異なる
4)精神も身体も僕らと殆ど同じである
について、
――オッカムの剃刀
が、あっさりと削ぎ落としうるのは、1)3)の可能性のみ――
ということになります。