政権の運営を映画の撮影に喩えると、
――民主主義の制御不能性
が、わかりやすくなる――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
――民主主義の制御不能性
というのは、
――撮影をされる映画が、どんな作品に仕上がるのかが、誰にもわからない、というようなこと
を指します。
民主主義の体制では、“撮影”の途中で“監督”が変わりうるのです。
映画の撮影において、シーンの一つひとつをどのようにフィルムに収めていくかは、監督が最終的には1人で決めていくものですよね。
その監督が撮影の最中にコロコロと変わったら――
どんな作品に仕上がるのかが見通せなくなるのは、当然のことです。
映画は、1人の監督の定見に基づいて撮影をされる――
それゆえに、鑑賞の対象となりえます。
民主主義の体制では、“映画の撮影”の最中に“監督”がコロコロと変わります。
政権選択の選挙が、ほぼ定期的に行われるからです。
権威主義の体制に慣れ親しんでいる人たちにしてみたら、
――監督の定見に基づかない映画など、誰が観たいと思うのか。
と訝しむことでしょう。
が――
民主主義の体制に慣れ親しんでいる人たちにとっては、
――政権の運営は鑑賞の対象ではない。
と考えます。
――そもそも、“監督”の定見に基づく必要がない。
ということです。
その「政権の運営」という名の“映画の撮影”には、“鑑賞者”が存在をせず――
強いていえば――
その“撮影”に関わりうる全ての人が、“鑑賞者”であると同時に、“制作者”でもあります。
裏を返すと――
権威主義の体制に慣れ親しんでいる人たちにとっては、
――政権の運営は鑑賞の対象である。
ということなのですね。
――もちろん、“監督”の定見に基づくべきである。
と――
この「政権の運営」という名の“映画の撮影”には、紛れもなく“鑑賞者”と“制作者”とが関わっていて――
終始、“制作者”は“鑑賞者”の視点や反応を気にしているものなのだ、と――
……
……
――政権の運営は“映画の撮影”である。
と考える人にとっては――
民主主義という体制――“監督”がコロコロと変わりうる体制――は、
――映画が支離滅裂な作品に仕上がってしまう。
という意味において、
――危険
です。
そんな“映画”を観させられた“鑑賞者”は――
烈火の如く怒り出すに決まっているからです。