マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

民主主義の制御不能性

 権威主義の国の人たちが“権威主義からの脱却”に踏み切れなかったのは、

 ――民主主義の制御不能

 を危険とみなしたからであろう――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――民主主義の制御不能

 とは何か――

 

 ……

 

 ……

 

 民主主義の国では、民が国の主権を担います。

 

 通常――

 民は数人ではなく――

 少なくとも数十万人、多ければ数億人という規模の人々です。

 

 数十万人以上が同時に協働で主権を担うことは不可能ですから――

 誰かが代表をし、主権に与ることになる――

 その際に、選挙が行われるわけです。

 

 この選挙の前後で、

 ――誰が主権に与るかは、誰にも見通せない。

 というのが、

 ――民主主義の制御不能

 の本態です。

 

 選挙を始まる直前まで主権に与っていた人が、選挙が終わった直後には、もはや主権に与っていない――

 ということが珍しくない――

 

 ……

 

 ……

 

 このことの意味は――

 映画の撮影に喩えると、わかりやすいでしょう。

 

 主権に与る人が選挙の前後で変わりうるということは――

 撮影の最中に監督が変わりうる、ということです。

 

 しかも――

 次に監督になる人が誰かは、誰にもわからない――

 同じ人かもしれないし、違う人かもしれない――

 それまでの監督と似た趣向の人かもしれないし、まったく違う趣向の人かもしれない――

 

 そんなふうにして撮影をされた映画が、どんな作品に仕上がっていくか――

 

 ……

 

 ……

 

 おそらく、

 ――制御不能

 に仕上がっていくでしょう。

 

 当たり前です。

 

 撮影の途中で監督が変わるのですから――

 一つの定見に基づいて作品が仕上げられていくわけがない――

 

 おそらく――

 およそ鑑賞に堪えない映画になっていることでしょう。

 

 ――それで、よし――

 とするのが民主主義です。

 

 この、

 ――民主主義の制御不能

 を所与のこととして受け入れるのは――

 権威主義の国で生まれ育った人々には、かなり難しいはずです。

 

 鑑賞に堪えない映画を観たいと思う鑑賞者など――

 存在をするわけがないからです。