マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

元号は民主主義になじまない?

 ――元号は民主主義の国家になじまない。

 という考え方があることは――
 おとといの『道草日記』で述べました。

 たしかに――
 歴史的な観点からみれば、

 ――あきらかに、その通り――

 といえます。

 元号専制君主が用いていた制度ですから――
 専制君主制と民主主義制とが相容れない以上――
 元号が民主主義と相容れないのは、自明のことのように思えます。

 が――
 僕は、
 (必ずしも、そうとはいえない)
 と考えています。

 (もし、元号が民主主義になじまないのだとしたら、それは、これまでの元号の決め方が民主主義になじまないだけである)
 と思うのです。

 ……

 ……

 歴史的な観点からみれば――
 たしかに――
 元号専制君主が自国の時間や自国が服従させている他国の時間を支配するための制度です。

 専制君主の国家では、主権が君主にあるため――
 その国家で扱われる元号は、当然ながら、専制君主の“道具”です。

 が――
 それは、専制君主の国家が元号を扱うから、そうなるのであって――

 主権が国民にある民主主義の国家が扱うなら――
 必ずしも、そうではありません。

 専制君主の国家が、専制君主的な手法で元号を扱ったように――
 民主主義の国家も、民主主義的な手法で元号を扱うことはできるでしょう。

 ……

 ……

 そもそも――

 時間とは――
 主観的な概念です。

 もちろん――
 時間は、少なくとも自然科学的には、物理量の一つであり――
 それゆえに、時間は、あたかも自然現象であるかのようにみなされていますが――

 実際には――
 時間は、個人一人ひとりの主観的な時間体験に深く根差した心理現象といえます。

 その心理現象を客観的に――厳密には、間主観的に――拡張して定義したものが、物理量としての時間です。

 よって――
 時間とは、本来、主観なのです。

 専制君主にとっての時間が主観であるように――
 民主主義を担う個人一人ひとりにとっての時間も、また主観です。

 よって――
 少なくとも原理的には――
 元号が民主主義の国家になじまないということは、ありえません。

 専制君主の国家になじむ元号の扱い方があるように――
 民主主義の国家になじむ元号の扱い方がある――

 そういう話です。

 ……

 ……

 専制君主の国家になじむ元号の扱い方については――
 歴史が教えるところです。

 その起源は――
 古代・中国に求められます。

 では――
 民主主義の国家になじむ元号の扱い方とは――
 いかなるものでしょうか。

 ……

 ……

 僕が知る限り――
 それは、まだ十分には確立されていません。

 現代の日本は十分に民主主義の国家である、と――
 僕は信じていますが――

 現在の日本の元号の扱い方は――
 民主主義の国家になじむ扱い方とはいえない、と――
 僕は思っています。

 民主主義の国家になじむ元号の扱い方とは――
 いかなるものか――

 ……

 ……

 続きは、あすに――