――戦争について、報道や戦記で知りうる範囲は、どうしようもなく浅いが、それなりに広いことは間違いない。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
裏を返すと、
――戦争について、実際の体験で知りうる範囲は、それなりに深いが、どうしようもなく狭いことは間違いない。
ということがいえるでしょう。
実際に戦争の体験をしている人たちは――
自分が戦場で目の当たりにした戦争の記憶だけで戦争の全体像を作り上げようとする傾向があります。
実際に戦争の体験をしている人たちにとっては――
戦争というのは、実に千差万別の事象なのです。
……
……
今から 20 年くらい前――
太平洋戦争(大東亜戦争)に海軍の士官として関わったと思しき人の手記を目にしたことがあります。
その人が所属をしていた部隊は――
手記を読む限り、大きな被害を受けなかったようです。
洋上だか孤島だかで敵の部隊に囲まれそうになって――
夕闇だか夜霧だかに紛れて、一か八かの撤退を試みたところ――
幸運にも賭けに勝ち、敵の部隊の追撃を受けずに日本へ帰って来られた――
自分が所属をしていた部隊の司令官の敵の部隊との駆け引きの妙に尊崇の念を抱いた云々――
こうした内容の手記だけを読んでいると――
戦争が、ハラハラドキドキの冒険活劇に思えてきます。
が――
実際の戦場では――
そういうことだけではなかったのです。
乗っていた艦艇が敵の魚雷攻撃を受け――
阿鼻叫喚の艇内で血塗れになりながら脱出用のボートに飛び乗った――
といった内容の手記も数多く残されています。
戦争が、ハラハラドキドキの冒険活劇であるはずがありません。
仮に、冒険活劇の要素が戦争に含まれていたとしても、その要素は些末的に違いありません。
戦争について――
報道や戦記だけで知ろうとすると間違えるように――
実際の体験だけで知ろうとしても間違えるのです。
……
……
ふと――
次のようなことも思います。
先ほど触れた冒険活劇風の従軍体験を書き残した元士官の人も――
ただ手記に書き入れなかっただけで――
実際には、凄惨な地獄絵のような現場に居合わせたことが、あったのかもしれない――ただ、そのことを書き残したくなかっただけなのかもしれない――
そんな偏りで歪んでいるかもしれない手記の集積が――
報道や戦記の土台になっていることも、また忘れてはいけません。