――戦争について、報道や戦記で知りうる範囲というのは、しょせんは、ごく表層である。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
――現地で戦争の体験を実際にしている人たちに比べれば、その範囲は無視ができるくらいに浅い。
と――
……
……
ただし――
その範囲は広いのです。
戦争について、報道や戦記で知りうる範囲というのは、浅くはあっても、たしかに広い――
よって――
戦争の全体像らしきものについて、何らかの心象をもたらしてくれることは――
十分にありえます。
――戦争とは、こういうもの――
といった大雑把な知見です。
……
……
が――
しょせんは浅いのですよね。
どうしようもなく浅い――
浅いから――
薄っぺらになる――
戦争に対する知識や理解や洞察が薄っぺらになる――
そして――
この“薄っぺら”に人は、なかなか気づかない――気づけない――
自分の手で戦争を始めようとする国家の最高指導者も――
おそらくは――
そうした薄っぺらの知識や理解や洞察に基づいています。
それなのに、
――私は戦争をよく知っている。
と勘違いをする――
……
……
このように述べる僕も――
たぶん勘違いをしていました。
(戦争に関する知識や理解や洞察が薄っぺらだったなぁ)
と今にして思います。
僕は、自分の両親が太平洋戦争(大東亜戦争)の最中に生まれていたので――
幼い頃から戦争について多くのことを聞かされて育ちました。
思春期以降、自分なりに関心を持ち、その対象を少しずつ広げてもいきました。
戦争について知っていた範囲は、多少は広かったかもしれません。
が――
どうしようもなく浅かった――
そして――
その浅さに気づかなかった――
……
……
国家の最高指導者も――
原理的には同じ浅慮に陥りうるはずです。
戦争をよく知っていたら――
決して戦争を始めようとはしないでしょう。
理屈の問題ではなく――
気持ちの問題です。
例えば――
10代、20代のときに――
実際の戦場における残酷な行為を目の当たりにし、残虐な行為に自分自身も手を染めて――あるいは、染めかけて――
その恐怖や罪悪の感覚に慄(おのの)いたことのある者が――
その30年後くらいに国家の最高指導者の地位に就いていたとして――
さて、
――戦争を始めよう。
などと思えるか――
……
……
(思えないに違いない)
と僕は感じます。
もし思えるとしたら――
その者は、実際の戦場における残酷な行為を目の当たりにしていないか――
あるいは、目の当たりにしていても、恐怖や罪悪の感覚に慄くことが、まったくなかったのでしょう。
そういう者が国家の最高指導者になることは――
その国家にとっても、その国家の近隣諸国にとっても――
そして、国際社会全体にとっても――
筆舌に尽くし難い不幸であり、惨劇であるに違いありません。