マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

戦争には2つの闘いがある

 ――戦争には2つの闘いがある。

 と――

 2006年12月8日の『道草日記』で僕は述べました。

 

 一つは、

 ――敵と味方との闘い

 です。

 もう一つは、

 ――戦争を望む者と望まない者との闘い

 です。

 

 今回のロシア政府によるウクライナ侵攻の報道をつぶさに見聞きしていて――

 気づいたことがあります。

 

 それは、

 ――敵と味方との闘い

 には、少なくとも2つある――

 ということです。

 

 どんな2つか――

 

 ――ウクライナの人々にとっての闘い

 と、

 ――ロシア政府にとっての闘い

 との2つです。

 

 ――ウクライナの人々にとっての闘い

 とは、

 ――ウクライナの人々とロシア政府およびロシア軍の闘い

 です。

 

 ――ロシア政府にとっての闘い

 とは、

 ――ロシアの人々とウクライナ政府およびウクライナ軍との闘い

 です。

 

 これら2つの闘いは、完全な第三者からみれば、同一の闘いの相異なる側面にすぎないのですが――

 当事者であるウクライナの人々やロシア政府にとっては、おそらく、根源的に全く相異なる2つの闘いです。

 

 ――敵と味方との闘い

 というのは――

 そのように当事者間で根源的に分裂をしています。

 

 ……

 

 ……

 

 ちなみに――

 戦争における、

 ――敵と味方との闘い

 というのは――

 ふつうに、

 ――敵と味方との戦い

 です。

 

 僕がいう、

 ――闘い

 とは、

 ――戦い

 の比喩を含みます。

 

 ――戦い

 は、

 ――殺し合い

 です。

 流血を伴います。

 

 一方、

 ――闘い

 は、必ずしも流血を伴わない――論争や政争、競争の類いも含みます。

 

 戦争における、

 ――敵と味方との闘い

 は、必ず流血を伴う殺し合いですから、

 ――敵と味方との戦い

 です。

 

 これに対し――

 戦争における、

 ――戦争を望む者と望まない者との闘い

 は、必然的に、

 ――闘い

 です。

 

 それは――

 定義上、決して、

 ――戦い

 であってはならないのです。

 

 ――闘い

 が、

 ――戦い

 になった途端――

 それは、流血を伴う殺し合い――つまり、戦争それ自体――になるのです。

 

 よって――

 それは、直ちに、

 ――戦争を望まない者の敗北

 や、

 ――戦争を望む者の勝利

 を意味することになり、

 ――戦争を望む者と望まない者との闘い

 は既に終わっているのです。