マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

失敗とは看過である

 ――失敗

 というのは――

 要するに、

 ――看過

 である、と――

 僕は思っています。

 

 ひょっとすると、

 ――無為

 や、

 ――無策

 も、

 ――失敗

 であるのかもしれませんが――

 

 少なくとも、

 ――看過なき無為・無策

 つまり、

 ――確信犯的な無為・無策

 というのは、

 (それを「失敗」というのは、さすがに難しいだろう)

 と僕は思います。

 

 あえていえば――

 それは、

 ――怠慢

 あるいは、

 ――放棄

 であり――

 あるいは、

 ――諦念

 あるいは、

 ――涅槃

 であると僕は思うのです。

 

 ……

 

 ……

 

 これまでの「失敗」に関する話をまとめます。

 

 ――失敗

 には、

 ――再起可能の失敗

 と、

 ――再起不能の失敗

 とがあり――

 それら2つの失敗の各々に、

 ――利益獲得の失敗

 と、

 ――損害回避の失敗

 とがある――

 

 つまり――

 失敗は、

 

  再起可能である“利益獲得の失敗”

  再起可能である“損害回避の失敗”

  再起不能である“利益獲得の失敗”

  再起不能である“損害回避の失敗”

 

 というように整理をすることができる――

 

 ここで、

 ――再起不能である“利益獲得の失敗”の問題

 や、

 ――再起不能である“損害回避の失敗”の問題

 というのは、

 ――看過の問題

 であり――

 

 ――再起可能である“利益獲得の失敗”の問題

 というのは、

 ――無為の問題

 であり――

 

 ――再起可能である“損害回避の失敗”の問題

 というのは、

 ――無策の問題

 である――

 

 ここまでに――

 僕は、

 ――〇〇の問題とは◇◇の問題である。

 というように、「問題」という言葉を膠(にかわ)のように用いて「〇〇」と「◇◇」とを結びつけてきましたが――

 もう「問題」はいらないでしょう――「〇〇」と「◇◇」とは直に結びつけてしまってよい――

 

 よって、

 ――失敗とは看過である。

 と僕はいってしまいたいのです。

 

 もちろん――

 ここでいう「失敗」とは、

 ――再起不能の失敗

 のことです。

 

 ――再起可能の失敗

 は、本当の意味では、

 ――失敗

 ではありえない――

 

 つまり、

 ――再起可能である“利益獲得の失敗”

 とは、

 ――無為

 であり、

 ――再起可能である“損害回避の失敗”

 とは、

 ――無策

 である――

 といえます。