マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

再起不能性の定義は普遍的でも絶対的でもない

 ――再起不能

 の定義は様々に考えられる――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 僕の定義は、

 ――失われる人命の数の期待値が 1 以上

 です。

 

 が――

 これが、

 ――普遍的で絶対的な基準である。

 と主張をするつもりはありません。

 

 何をもって、

 ――再起不能

 とみなすかは――

 最終的には、個人の感覚に依るしかない、と――

 僕は思っています。

 

 極端な話をします。

 

 ある人が朝、職場へ向かう際に、

 ――きょうはAさんに挨拶をしようか。

 と考えているとします。

 

 その人は以前Aさんに思いきって「おはようございます」と声をかけたところ――

 無視をされ――

 その日は一日中モヤモヤした気分となり――

 仕事が手につかず――

 ついに取引先との交渉に支障をきたし、会社に損益が出てしまいました。

 

 本当に無視をされたかどうかは、わかりません。

 ひょっとすると、声が小さすぎて気づいてもらえなかっただけかもしれない――

 

 そうであれば――

 きょうも思いきってAさんに声をかけたらよいのです。

 

 が――

 もし、本当に無視をされたのだとしたら――

 

 きょうも無視をされるでしょう。

 

 そうなると――

 また一日中モヤモヤした気分となり、仕事が手につかなくなるかもしれない――

 

 なので――

 その人は決断をします。

 

 ――きょうはAさんに挨拶をしない。

 と――

 

 その人にとって――

 Aさんに挨拶をし、無視をされることが、

 ――再起不能の失敗

 であるからです。

 

 ――いやいや、十分に再起可能だろう!

 という異論は真っ当である、と――

 僕は思います。

 

 が――

 この異論を真っ当であると思わない人もいるでしょう。

 

 Aさんに挨拶をし、無視をされることは、たしかに、

 ――再起不能の失敗

 である、と――

 共感を示す人もいるはずです。

 

 それに対し――

 さらなる異論を挟むのは控えたほうがよい――

 そのように僕は思います。