――藤原氏の摂関政治は道長(みちなが)・頼通(よりみち)のときに全盛期を迎えた。
と日本史の教科書の類いには記されています。
ここでいう、
――道長
とは、
――藤原道長(ふじわらのみちなが)
のことで、
――頼通
とは、
――藤原頼通(ふじわらのよりみち)
のことです。
道長と並んで全盛期を築いたとされる頼通ですが――
日本史での存在感は、いま一つです。
父・道長の庇護の下で出世を重ねていた頃は、穏和な性格で道長の政治に批判的であった者たちでさえ好意をもったそうですが――
その父が亡くなり、父が築いた統治機構を受け継いで、20 年、30 年と政権の首班であり続けるうちに――
しだいに派手好きとなって、権力欲にとりつかれていったといわれています。
要するに――
頼通は、
――普通の人
であったのでしょう。
おそらく――
それほど創造的でもカリスマ的でもなかった人物――あの藤原道長の嫡男でなければ、決して政権の首班に就くことはありえなかった人物――です。
父・道長の真似をして、自分の娘を天皇に嫁がせ、皇子を産ませ、その皇子を新たに天皇とすることを試みましたが――
とうとう最後まで巧くいきませんでした。
天皇の外祖父になれなかった頼通は――
天皇の外祖父になれずとも政権の首班であり続けるための方策を見出すことができず――
父・道長から受け継いだ「権力基盤」という名の財産を一代で食いつぶして――
その生涯を閉じました。
82 年余りの生涯であったそうです。
その後、政権の首班は天皇家の当主――上皇や法皇(ほうおう)――が務めるようになっていき――
藤原氏の手中に政権が収まることは二度とありませんでした。
僕が関心をもったのは――
なぜ、このような凡庸ともいえる人物が、あの藤原道長の後継者となりえたのか、です。
――隆家(たかいえ)が譲ったから――
というのが――
僕の答えです。
――隆家
というのは、もちろん、
――藤原隆家(ふじわらのたかいえ)
のことです。
骨肉の政争の予防を第一に考えていたであろう隆家にとって――
たとえ凡庸な人物であっても、政権の首班としての大きな欠点がなければ、十分に許容をすることができたのでしょう。
その意味で――
藤原氏の摂関政治の全盛期を築いたのは、道長・頼通の二人ではなくて――
道長・隆家の二人であった――
といえるのではないでしょうか。