マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

陰陽道から呪術や占術の領域を除いたら何が残るのか

 短編物語集『堤(つつみ)中納言物語』の一編、

 ――虫愛づる姫君

 の主人公・虫好きの姫のモデルになっているであろう人物――藤原宗輔(ふじわらのむねすけ)の娘――通称、若御前(わかごぜん)――と、平安後期の公卿・藤原頼長(ふじわらのよりなが)とは、

 ――陰陽(おんみょう)道から呪術や占術の領域を除いた部分――自然哲学的な部分――つまり、陰陽(いんよう)五行(ごぎょう)思想――

 に深い関心を寄せていたのではないか――

 ということを、10月30日の『道草日記』で述べました。

 

 このように述べると、

 ――そもそも陰陽道から呪術や占術の領域を除いたら何が残るのか。

 と訝る向きもあるでしょう。

 

 実は、

 (ほとんど何も残らないかもしれない)

 と僕も思っています。

 

 藤原頼長や若御前の時代に――

 陰陽道が人々の生活に入り込んでいたのは――

 それが日常生活に有益であったからです。

 

 その有益性は、当然のことながら、陰陽道の自然哲学としての側面ではなく、呪術や占術としての側面に由来をしていました。

 

 当時の人々は――

 なかなかに決めかねることを決めなければならないときに――例えば、引っ越しをするときや自分の住まいを建てかえるときに――

 その決断の根拠を得るために、陰陽道の占術としての側面を大いに活かしていました。

 

 占術は、人が決めるかねることを決める際には大変に有用なのです。

 

 呪術についても――

 今の自分たちの日常生活を少しでも良くしたいという願い――あるいは、祈り――が発露をしたものが呪術であり――

 その有益性は、当時の人々にとっては自明でした。

 

 よって――

 もし、藤原頼長や若御前が、陰陽道の呪術や占術としての側面に殆ど関心を示さず、もっぱら自然哲学としての側面のみに関心を示していたとしたら――

 人々から、

 ――滑稽だ。

 と蔑まれていたことでしょう。

 

 ――それでは、何のために陰陽五行思想を学んでいるのか、わからないではないか。

 と――

 

 ……

 

 ……

 

 実際には――

 自然界の事物の本地――物事の本来の素地――を前にしたら、陰陽五行思想の有用性などは吹き飛んでしまいます。

 

 陰陽五行思想は、自然界の事物の振る舞いを説くには、あまりにも実証に乏しく、思惟が過ぎるのです。

 

 そのことは――

 21世紀序盤の現代に生きる僕らにとっては明らかですが――

 

 藤原頼長や若御前の時代には、とてつもなく、わかりにくかったことでしょう。

 

 それをきちんと見破っていたのが虫好きの姫であり――そのモデルになっているであろう若御前――藤原宗輔(ふじわらのむねすけ)の娘――であった、と――

 僕は思い描いています。

 

 この点に着目をすると――

 短編物語集『堤(つつみ)中納言物語』の一編、

 ――虫愛づる姫君

 の主人公・虫好きの姫の美化が、思いのほか、やりやすくなります。