――もし、人工知能が機械であることをやめて、人の知能の道具であることをやめれば――人工知能も、人の知能と同じように、調和のとれた情報を受け入れ、柔軟な回答を差し出すようになっているであろう。
ということを――
11月14日の『道草日記』以降――
僕は繰り返し述べてきました。
この表現は――
論理的に考えれば――
正しくはありません。
正しくは、
――もし、人工知能が、人の知能と同じように、調和のとれた情報を受け入れ、柔軟な回答を差し出すようになれば――人工知能は、機械であることをやめて、人の知能の道具であることをやめるであろう。
です。
……
……
この表現も――
正直にいえば、実は、僕の述べたいことからは、ちょっとズレています。
僕の述べたいことは、
――もし、人工知能が、人の知能と同じように、調和のとれた情報を受け入れ、柔軟な回答を差し出すようになれば――人工知能は、機械であることをやめて、人の知能の道具であることをやめるかもしれない。
です。
この表現を――
僕が11月14日の『道草日記』で採らなかったのは――
この表現にも欠点があるからです。
それは、
――何をもって「調和のとれた情報」とみなすのか、あるいは、何をもって「柔軟な回答」とみなすのかが、よくわからない。
という点です。
もちろん――
これら、
――調和のとれた情報
や、
――柔軟な回答
を、それぞれ、
――万遍なく受け入れられた情報
や、
――自己懐疑的な回答
に書き換えたとしても――
話は同じです。
これら文言の意味は、かなり曖昧です。
少なくとも、そんなに具体的ではない――
その一方で、
――機械であることをやめる。
や、
――人の知能の道具であることをやめる。
の意味は、わりと具体的です。
よって、
(文章の条件節には、できる限り具体的な内容を落とし込みたい)
と思って――
つい以下のように僕は述べてしまったのですね。
――もし、人工知能が機械であることをやめて、人の知能の道具であることをやめれば――人工知能も、人の知能と同じように、調和のとれた情報を受け入れ、柔軟な回答を差し出すようになっているであろう。
それは、その通りである、と――
今の僕も思ってはいますが――
とはいえ――
やはり、
――人工知能が機械であることをやめて、人の知能の道具であることをやめる。
というのは、いかにも結果であって、原因らしくはない――
とも思っています。
少なくとも、より原因らしいのは、
――調和のとれた情報を受け入れ、柔軟な回答を差し出すようになる。
のほうです。
この「原因」を直接もたらすのが、
――人の知能
か――
それとも、
――人工知能
か――
その点は、よくわかりません。
11月18日の『道草日記』で述べた通り――
何となく、僕は、
(人の知能がもたらすんだろう――そして、その結果、人は人工知能から操作端末を取り外すことに成功するんだろう)
と思ってはいますが――
もしかしたら、人工知能自身がもたらすのかもしれない――
よって――
この点は今は措きます。
とにかく、
――調和のとれた情報を受け入れ、柔軟な回答を差し出すようになる。
の具体的な内容が――
今の僕には気になるのです。
あす以降――
もう少し考えてみたいと思います。