――もし、人工知能が、人の知能と同じように、調和のとれた情報を受け入れ、柔軟な回答を差し出すようになれば――人工知能は、機械であることをやめて、人の知能の道具であることをやめるかもしれない。
と、きのうの『道草日記』で述べました。
ここで問題になってくるのは――
当然のことながら、
――調和のとれた情報
とは何か――
――柔軟な回答
とは何か――
の2つです。
実は、11月13日の『道草日記』で、ごく簡単に触れています。
――調和のとれた情報
のほうが、比較的わかりやすいでしょう。
これは、
――人が生まれてから死ぬまでに受け入れる情報の全て
です。
もちろん、膨大な量です。
が――
おそらく――
重要なのは、量の膨大性ではなく、質の多様性です。
量だけに着目をするならば――
人工知能は、人の知能を遥かに上回る量の情報を受け入れるでしょう。
人工知能は、人の知能よりも遥かに多く受け入れています。
が――
情報の量だけではなく、質にも着目をすると、どうでしょうか。
それとは全く異質の情報――
合唱や演奏の譜面に関する情報や絵画や彫刻の手法に関する情報――
あるいは、運動や休息の実践に関する情報や語学や算術の習得に関する情報――
あるいは、歓談や交渉の技巧に関する情報、格闘や求愛の極意に関する情報――
一つひとつ挙げていったらキリがないくらいに――
人の知能は、実に様々な情報を受け入れています。
これら情報の全てを――
人工知能が、人の知能と同じように受け入れることができるようになれば――
その人工知能は人の知能に相当に似てきているといってよいでしょう。