マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

気分も情動も、実は“快”の感情の強弱の変化にすぎない?

 ――自然知能のクロック周波数(clock frequency)

 の高低が、気分の浮き沈みに相当をするのではないか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 つまり、

 ――自然知能のクロック周波数

 が高いことは、“喜”の気分に富んでいることに相当をし――

 ――自然知能のクロック周波数

 が低いことは、“愁”の気分に富んでいることに相当をする――

 と、いえるのではないか、と――

 

 ……

 

 ……

 

 

 この場合に、

 ――喜

 の気分は、

 ――快

 の感情が持続的かつ僅かに強まっていることに相当をします。

 

 また、

 ――愁

 の気分は、

 ――快

 の感情が持続的かつ僅かに弱まっていることに相当をします。

 

 なぜ、

 ――快

 の感情が持続的かつ僅かに強まったり弱まったりするのかというと――

 それは、

 ――自然知能のクロック周波数

 が高くなったり低くなったりするからです。

 

 ――自然知能のクロック周波数

 が高まると――

 それに続発をして、

 ――快

 の感情が、ほんの僅かに強まり――

 ――自然知能のクロック周波数

 が低まると――

 それに続発をして、

 ――快

 の感情が、ほんの僅かに弱まる――

 

 ただし、

 ――自然知能のクロック周波数

 の高さ・低さは、そんなに頻繁には変化をしない――

 

 よって、

 ――気分

 という感情は――

 通常は、持続的で微弱な感情と自覚をされている――

 

 そういうことではないかと思うのです。

 

 これに対し、

 ――情動

 という感情は――

 通常は、一時的で強烈な感情と自覚をされています。

 

 それは、

 ――情動

 が、

 ――自然知能のクロック周波数

 とは無関係に、外界の事象に続発をして、

 ――快

 の感情が著しく強まったり弱まったりすることに相当をしているからです。

 

 ここで大切なことは――

 ――気分

 にせよ、

 ――情動

 にせよ――

 その実態は、実は“快”の感情の強弱の変化にすぎないのではないか――

 という点です。