マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

情動も実は気分と同じく“作動”ではないか

 ――気分

 は、自然知能にとっての“クロック周波数(clock frequency)”のような概念であり――

 それゆえに、

 ――気分

 は、自然知能にとっての、

 ――作動

 ではないか――

 ということを、おとといの『道草日記』で述べました。

 

 一方、

 ――情動

 には、認知や言動の決定を支える働きがあるのではないか――

 ということも、おとといの『道草日記』で述べています。

 

 それゆえに、

 ――情動

 は、自然知能にとっての、

 ――作用

 ではないか、と――

 

 ……

 

 ……

 

 ここで新たな疑問が生じます。

 ――自然知能にとって、なぜ感情は“作動”と“作用”とに分かれているのか。

 という疑問です。

 

 この疑問に向き合うと、

 (そもそも情動は本当に“作用”なのか)

 を疑ってみたくなります。

 

 ――気分

 が、自然知能にとっての、

 ――作動

 であるならば、

 ――情動

 も、また、

 ――作動

 ではないのか、と――

 

 ……

 

 ……

 

 ――情動は認知や言動の決定を支えている。

 と述べました。

 

 その見方を変えれば、

 ――情動は認知や言動の決定へ常に介入をしている。

 ともいえます。

 

 なぜ介入をしているのか――

 

 それは、自然知能の処理能力に限界があるからでしょう。

 限られた処理能力で迅速に出力(output)をするための仕掛けです。

 

 つまり、

 ――気分

 と並んで、

 ――情動

 も、また――

 自然知能の生理的ないし器質的な側面の管理や制御を司っている――

 といえるのではないか――

 

 ……

 

 ……

 

 もし、そうであるとするならば――

 

 ――感情

 は、徹頭徹尾、自然知能にとっての、

 ――作動

 である――

 ということになります。

 

 このように考えると、

 ――自然知能にとって、なぜ感情は“作動”と“作用”とに分かれているのか。

 との疑問は氷解をします。

 

 そもそも、

 ――感情

 のうちの、

 ――気分

 は、

 ――作動

 であり、

 ――情動

 は、

 ――作用

 であると考えるほうが、何かと中途半端で、すっきりしませんよね。