マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

戦争:どこで何をまちがえたのか

 ――戦争

 というのは――

 ルールもなく、審判(しんぱん)もいないところで、たがいに殺(ころ)しあいをすることである――

 と、きのう、のべました。

 

 このような殺しあいは――

 実は、ごくふつうの思いから始まります。

 

 ――もっと幸せになりたい。

 とか、

 ――いつまでも幸せでありたい。

 とかいった思いです。

 

 幸せを追い求めていく結果――

 ルールもなく、審判もいないところで、たがいに殺しあいをしていく――

 

 それは、まちがいなく、

 ――不幸せの極み

 です。

 

 つまり――

 戦争を始める人たちは、幸せを求めて不幸せになっていくのですね。

 

 5月5日に――

 ぼくは、

 ――幸か不幸か、いま激(はげ)しい戦争が起こっていて、“本当の戦争の様子”をみたり、きいたりできる。

 と、のべました。

 

 が――

 

 ――幸か不幸か――

 というのは――

 まちがいでしたね。

 

 ――不幸

 に決まっています。

 

 ――本当の戦争の様子

 をみたり、きいたりできてしまう、ということは――

 これ以上ないくらいの不幸せです。

 

 幸せを求めて戦争を始め、けっきょくは不幸せになっていく人たちは――

 いったい、どこで何をまちがえたのでしょう?

 

 みなさん――

 わかりますか。

 

 ……

 

 ……

 

 自分の幸せだけを求めたから――あるいは、自分たちの幸せだけを求めたから――まちがえたのですね。

 

 自分や自分たちの幸せだけでなく、相手の幸せも求めていれば――

 戦争にはなりません。

 

 ロシアとウクライナとの戦争も、そうです。

 

 ロシアの人たちが、自分たちの幸せだけでなく、ウクライナの人たちの幸せも求めていたならば――

 ウクライナへ軍隊を向かわせたりはしません。

 

 ウクライナの人たちが、自分たちの幸せだけでなく、ロシアの人たちの幸せも求めていたならば――

 ロシアの軍隊が向かってくることは、なかったかもしれない――

 

 そうなっていれば――

 戦争にはならなかったはずです。

 

 が――

 

 自分たちの幸せだけなく、相手の幸せも求めるということは――

 とても難(むずか)しいことなのです。

 

 なぜかというと――

 相手の幸せを求めるということは、多くの場合は、自分や自分たちの不幸せを受け入れてガマンをする、ということでもあるからです。

 

 人は、

 ――意識(いしき)

 を働かせ、つねに自分や自分たちのことをわかろうとしています。

 

 自分や自分たちが不幸せになるとわかっていて――

 それでも、その不幸せを受け入れてガマンをしていくということは――

 まるで、

 ――意識

 を働かせないで生きていくようなことです。

 

 ――意識を働かせる生き物

 であるヒトが、

 ――意識

 を働かせないで生きていく、というのは――

 ものすごく不自然なことです。

 

 何のための、

 ――意識

 なのかが、わからない――

 

 ……

 

 ……

 

 よって――

 多くの人たちが、

 ――自分や自分たちの幸せだけを追い求める。

 という、まちがいをしてしまいます。

 

 そして――

 戦争が始まってしまうのです。