マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

区別は難しい:“受け入れてはいけない不幸せ”と“受け入れてもよい不幸せ”と――

 ――受け入れてはいけない不幸せ

 と、

 ――受け入れてもよい不幸せ

 との区別は、とても大切である――

 と、きのう、のべました。

 

 例えば、

 ――戦争の不幸せ

 は、だれかの命が失われるから、

 ――受け入れてはいけない不幸せ

 であり、

 ――おカネのことで損(そん)をするという不幸せ

 や、

 ――ほかの人たちからバカにされるという不幸せ

 は、だれかの命が失われるわけではないから、

 ――受け入れてもよい幸せ

 である、と――

 

 ……

 

 ……

 

 このようにいうと、

 ――受け入れてはいけない不幸せ

 と、

 ――受け入れてもよい不幸せ

 との違(ちが)いは、そんなにはっきりしていないから――

 それら2つの不幸せの区別をつけることはできない――

 と、いい返されるかもしれません。

 

 たしかに、

 ――受け入れてはいけない不幸せ

 と、

 ――受け入れてもよい不幸せ

 との違いは、わかりづらいのですね。

 

 ――だれかの命が失われるかどうか

 に着目をすることで――

 一見、簡単(かんたん)に区別ができるようですが――

 

 そうとは、かぎりません。

 

 例えば、

 ――おカネのことで損をするという不幸せ

 や、

 ――ほかの人たちからバカにされるという不幸せ

 であっても――

 だれかの命が失われる可能性はあるのです。

 

 おカネのことで国全体が損をした結果――

 体の弱い人たちや病気の人たちが死んでしまうかもしれないし――

 ほかの人たちからバカにされた結果――

 生きていくのがイヤになって自殺をしてしまうかもしれない――

 

 このように考えていくと、

 ――おカネのことで損をするという不幸せ

 や、

 ――ほかの人たちからバカにされるという不幸せ

 であっても、だれかの命が失われることはありうるわけであるから――

 これら2つの不幸せも、

 ――戦争の不幸せ

 と同じように、

 ――受け入れてはいけない不幸せ

 である――

 といえることになります。

 

 つまり、

 ――戦争の不幸せ

 も、

 ――おカネのことで損をするという不幸せ

 も、

 ――ほかの人たちからバカにされるという不幸せ

 も――

 けっきょくは程度(ていど)の違いであって――

 根本的な違いは何もない――

 ということになるのです。

 

 そこに根本的な違いが何もないのなら、

 ――戦争の不幸せ

 だけを、

 ――受け入れてはいけない不幸せ

 と、みなすのは公平ではない――

 

 もし、

 ――おカネのことで損をするという不幸せ

 や、

 ――ほかの人たちからバカにされるという不幸せ

 を、

 ――受け入れてもよい不幸せ

 と、みなすのであれば、

 ――戦争の不幸せ

 も、

 ――受け入れてもよい不幸せ

 と、みなさなければならない――

 

 そのように考えることもできるのです。

 

 ……

 

 ……

 

 みなさんは、どのように考えますか。

 

 『10 歳の頃の貴方へ』