――戦争の不幸せ
は、だれかの命が失われる不幸せであるから、
――受け入れてはいけない不幸せ
であり、
――おカネのことで損(そん)をするという不幸せ
や、
――ほかの人たちからバカにされるという不幸せ
は、だれかの命が失われる不幸せではないから、
――受け入れてもよい不幸せ
である、という考えに対して――
――おカネのことで損をするという不幸せ
や、
――ほかの人たちからバカにされるという不幸せ
でも、だれかの命が失われる可能性は「ない」とはいえないから――
これら3つの不幸せの間に根本的な違いはない――
という考えも成り立ちうることを――
きのう、のべました。
例えば――
おカネのことで国全体が損をした結果、体の弱い人たちや病気の人たちが死んでしまうかもしれないし――
ほかの人たちからバカにされた結果、生きていくのがイヤになって自殺をしてしまうかもしれない――
と――
……
……
本当に、
――戦争の不幸せ
と
――おカネのことで損をするという不幸せ
や、
――ほかの人たちからバカにされるという不幸せ
との間に、根本的な違いはないのでしょうか。
……
……
ぼくは、
(根本的な違いがある)
と考えています。
たしかに、
――おカネのことで損をするという不幸せ
や、
――ほかの人たちからバカにされるという不幸せ
で、だれかの命が失われる可能性は「ない」とはいえません。
が――
その可能性があったとしても――
これら2つの不幸せが直接に、だれかの命をうばうわけではありません。
おカネのことで国全体が損をした結果、体の弱い人たちや病気の人たちが死んでしまうのは――
おカネのことで国全体が損をする前から、体の弱い人たちや病気の人たちをどのように守っていくのかが、十分に考えられていなかったからかもしれないし――
ほかの人たちからバカにされた結果、生きていくのがイヤになって自殺をしてしまうのは――
ほかの人たちからバカにされる前から、実は生きていくのがイヤになっていて、そのことに本人も周囲も気づけていなかったからかもしれないのです。
これら2つの不幸せに対し、
――戦争の不幸せ
は直接に、だれかの命をうばいます。
戦争が始まれば――
敵(てき)の兵士(へいし)の命をうばい、味方の兵士の命はうばわれる――
――戦争
は、
――殺(ころ)しあい
であるからです。
……
……
このように考えていくと――
――戦争の不幸せ
と
――おカネのことで損をするという不幸せ
や、
――ほかの人たちからバカにされるという不幸せ
との間には、根本的な違いがある――
ということになります。
ただし――
その違いは、
(ちょっと、わかりづらい)
とは思います。
『10 歳の頃の貴方へ――』