マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

親孝行の難しさ

 ――親孝行(おやこうこう)、したいときには親は亡(な)い。

 という言葉を――

 ぼくは、

 ――親孝行は、親が亡くなってから、したくなるものであるが、そうなってからでは遅(おそ)いので、まだ親が元気なうちから、親孝行をするのがよい。

 という意味ではなく、

 ――人は、自分の親が亡くなると、ますます人を大切にあつかうことの大切さを思い知るようになる。

 という意味で理解(りかい)をしている――

 と、きのう、のべました。

 

 なぜ、そのように理解をするようになったのかというと――

 

 それは――

 ぼくが 28 才のときに、父が亡くなったからです。

 

 亡くなる 1 ~ 2 年くらい前から――

 重い病気があることは、わかっていました。

 

 なので――

 まもなく父と「お別れ」をしなければならないということも、わかっていました。

 

 ――親孝行、したいときには親は亡い。

 という言葉も知っていましたから――

 

 ぼくは、父に対して、

 (できるかぎり親孝行をしよう)

 と思いました。

 

 本当に、できるかぎりのことをしました。

 

 ところが――

 父が亡くなって、2 ~ 3 年くらいが経って――

 

 (あの「親孝行」は、本当の親孝行ではなかったな)

 と思うようになりました。

 

 ちゃんと父の立場を思った親孝行ではなくて――

 どちらかというと自分中心の、

 ――親孝行もどき

 であったのですね。

 

 (今だったら、もう少し本当の親孝行ができそうなのになぁ)

 

 けれど――

 もう遅いわけです。

 

 かといって――

 

 (あのとき、もっと、こんなふうに親孝行をしておくんだった)

 とは思いませんでした。

 

 (あのときは、あのときで、せいいっぱい、やった。あれ以上はムリだった)

 と思ったのですね。

 

 その上で――

 しみじみと思ったことは――

 

 ――親孝行の難(むずか)しさ

 です。

 

 ――親を大切にあつかう。

 というのは、少なくとも言葉でいうほどには、かんたんではありません。

 

 それは、そのまま、

 ――人を大切にあつかう。

 ということの難しさに通じます。

 

 ――親を大切にあつかう。

 ということも、

 ――人を大切にあつかう。

 ということも――

 その意味をかんたんに考えてはいけない――大切に考えていかなくてはいけない――

 

 それが――

 28 才で父を亡くし――

 それから 2 ~ 3 年が経(た)って――

 ぼくが思ったことでした。

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』