マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

なぜ「親孝行」というのに「子慈育」とはいわないのか

 ――親孝行(おやこうこう)

 という言葉はあるのに、

 ――子(こ)慈育(じいく)

 という言葉はないようである――

 と、きのう、のべました。

 

 ――子どもが親を大切にあつかうこと

 を、

 ――孝行(こうこう)

 というのに対して、

 ――親が子どもを大切にあつかうこと

 を、

 ――慈育(じいく)

 ということに着目をした結果でした。

 

 なぜ、

 ――親孝行

 とはいうのに、

 ――子慈育

 とはいわないのか――

 

 それは――

 

 ……

 

 ……

 

 子どもは、十分に意識(いしき)をしないと、なかなか親孝行ができないのに対して――

 親は、十分に意識をしなくても、すんなりと“子慈育”ができてしまうからなのです。

 

 よって――

 子どもには、

 ――親を大切にあつかいなさい。

 と、くりかえし伝える必要がありますが――

 親には、

 ――子どもを大切にあつかいなさい。

 と、くりかえし伝える必要はないのですね。

 

 くりかえし伝えなくても――

 わかっているからです。

 

 ……

 

 ……

 

 もちろん――

 例外はあります。

 

 すべての子どもが強く意識をしないと親孝行ができないわけではなくて――

 すべての親が強く意識をしなくても“子慈育”ができるわけではありません。

 

 が――

 ほとんどの子どもは、なかなか親孝行ができず――

 ほとんどの親は、すんなり“子慈育”ができる――

 ということが広く知られています。

 

 なぜ、そうなのか――

 

 ……

 

 ……

 

 おそらく、

 (ヒトの本能(ほんのう)だろう)

 と、ぼくは思っています。

 

 ――本能

 というのは、生き物が生まれつきもっている力のことです。

 

 ほとんどのヒトは、生物として、生まれつき子どもを大切にあつかうようになっている――

 

 けれども――

 ほとんどのヒトは、生物として、生まれつき親を大切にあつかうようにはなっていない――

 

 だから――

 ほとんどの人は、年長者から、

 ――親を大切にあつかいなさい。

 と、くりかえし、いわれる一方で、

 ――子どもを大切にあつかいなさい。

 とは、いわれない――

 

 よって、

 ――親孝行

 という言葉は必要とされても、

 ――子慈育

 という言葉は必要とされなかった――

 

 そういうことではないか、と――

 ぼくは考えています。

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』