マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

あたかも宗教であるかのような――

 ――あたかも科学(かがく)であるかのような宗教(しゅうきょう)

 に騙(だま)されないように気をつけよう――

 と、きのう、のべました。

 

 このようにのべると、

 ――“あたかも科学であるかのような宗教”というのは悪い活動なのか。

 と考える人もいるでしょうね。

 

 実際(じっさい)には――

 悪いわけではありません。

 

 少なくとも、

 ――悪い。

 と決めつけることはできません。

 

 ――あたかも科学であるかのような宗教

 というのは――

 あくまでも、

 ――宗教

 であって、

 ――科学

 ではありませんから――

 

 これを、

 ――宗教

 と、みなして信じるのであれば――

 まったく問題はないのですね。

 

 これを、

 ――科学

 と、みなして信じるのであれば――

 問題があるのです。

 

 ――あたかも科学であるかのような宗教

 とゴッチャにしやすい活動に、

 ――あたかも宗教であるかのような科学

 というのがあります。

 

 まるで、

 ――神さまはいる。

 というようなことを信じることから始まる科学――

 ですね。

 

 例えば、

 ――光が進む速さは、どんなところで、どんな動きをしている人にとっても、同じである。

 とか、

 ――物をどんどん小さくしていくと、波でありながら、粒(つぶ)でもあるような物になる。

 とかいったような――いっけん、ぼくらの日ごろの感覚では、ありえないようなことを信じることから始まる科学――

 というのが、あるのです。

 

 ――どんなところで、どんな動きをしている人にとっても、光の進む速さが同じ――

 ということは、

 ――光が進む速さに近い速さで動いている人にとっても、ただ止まっている人にとっても、光の速さは同じ――

 ということです。

 

 また、

 ――波でありながら、粒でもあるような物になる。

 ということは、

 ――何かが波を打っている事と何かが小さくバラバラにされた物とは同じ――

 ということです。

 

 どちらも、

 ――神さまはいる。

 ということ以上に信じにくいことですが――

 

 こうしたことを信じることから始まる科学というのが――

 たしかに、あるのです。

 

 ――物理学(ぶつりがく)

 という科学です。

 

 ――物理学

 は、200 年くらい前までは、

 ――いかにも科学らしい科学

 でした。

 

 100 年くらい前からは、

 ――あたかも宗教であるかのような科学

 になっています。

 

 が、

 ――物理学

 は、まちがいなく科学です。

 

 なぜ、そういえるのか――

 みなさん、わかりますか。

 

 ……

 

 ……

 

 そうです。

 

 ――反証可能性(はんしょうかのうせい)

 と、

 ――再現性(さいげんせい)

 との2つの約束事が――

 きちんと守られているからです。

 

 『10 歳の頃の貴方へ――』