マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

本能寺(6)

 織田(おだ)信長(のぶなが)が――

 本能寺(ほんのうじ)の変の前夜――

 嫡子・織田信忠のぶただ)から受けていたかもしれない諫め事には、2つあった。

 

 1つは、軍の最高指揮権に関わることである。

 

 そして――

 もう1つは――

 

 ……

 

 ……

 

 朝廷が司っていた暦(こよみ)に関わることである。

 

 当時――

 この国で使われていたのは、

 ――宣明(せんみょう)暦(れき)

 という名の太陰太陽暦――であった。

 

 9世紀に中国大陸から伝わった暦で――

 その後、800 年以上の長きにわたって――

 朝廷が所管をした。

 

 本能寺の変の頃も――

 基本的には――

 この暦が使われていた。

 

 が――

 鎌倉期以降、朝廷の権威が大きく損なわれたことで――

 

 この暦の権威も大いに弱まる。

 

 その結果――

 日本列島の各地で、民間の暦が作られ、使われるようになった。

 

 それら暦のうち、有力であったのは――

 主に東国で使われていた伊豆(いず)の暦――三島(みしま)暦(ごよみ)――であった。

 

 天正9年――西暦1581年――

 問題が持ち上がる。

 

 朝廷が司っていた宣明暦と東国で使われていた三島暦とで、閏月の入れ方が違ってしまったのである。

 

 日本列島で相異なる2つ以上の暦が使われる状況は――

 朝廷の権威をさらに深く傷つけるだけでなく――

 この国の政治・経済・軍事・農耕などの営みに大混乱をもたらす可能性があった。

 

 これを嫌った信長は――

 朝廷に対し、宣明暦を三島暦に合わせる形での改暦を求めた。

 

 本来、朝廷の権威を守るのであれば――

 三島暦をはじめとする民間の暦を朝廷が司っていた宣明暦に合わさせるのがよい。

 

 が――

 当時、朝廷の権威が大きくを失墜をしていたこと――また、信長自身、日本列島の全域を武力で統べるには至っていなかったこと――などを踏まえ――

 三島暦をはじめとする民間の暦を全て宣明暦に合わさせるのは、

 ――到底、現実的でない。

 と信長は考えたらしい。

 

 それよりは――

 朝廷が、自身で司っている宣明暦を三島暦に合わせることで――

 この国の政治・経済・軍事・農耕などの営みに大混乱をもたらされることがないように配慮を示すことにより――

 かえって朝廷の権威を高めることができる――

 

 そう信長は考えたようである。

 

 ……

 

 ……

 

 この信長の提案を――

 朝廷は拒んだ。

 

 一応、提案の意義を真剣に検討はしたようであるが――

 検討の結果、

 ――改暦には及ばぬ

 との結論が下った。

 

 その結論に――

 信長も一度は納得をしたようである。

 

 が――

 本能寺の変の前日――

 信長は、問題を蒸し返した。

 

 自身が本能寺で催した茶会の席で、朝廷の公家たちを相手に――

 改暦を迫ったのである。

 

 その場に――

 信忠も居合わせていたか――

 あるいは、少なくとも問題の蒸し返しを耳にはしたはずである。

 

 信忠は、父に従順であった。

 

 あからさまに、

 ――往生際の悪いことをするな。

 とは、いわなかったはずである。

 

 が――

 それに準じる言葉を、慎重かつ丁重に、述べた可能性はある。

 

 それを聞き――

 父は何を思ったか。

 

 ……

 

 ……

 

 『随に――』