マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

血縁の強権性

 昨日今日の1泊2日で――
 岡山の実家に行ってきた。

 法事に出席するためである。

 今年は父の七回忌にあたる。

 そうはいっても――
 七回忌の法事は、父の命日(11月3日)に、しかるべき場所で、改めて執り行うつもりでいるので――
 お盆の法事にまで、無理に顔を出す必要はなかったかもしれないのだが――
 本格的なセレモニーを執り行う前のルーチンをおろそかにすることが、何となく気持ち悪く思われたので――
 結局、出席することにした。

 仙台・岡山を1泊2日で往復する――
 想像通りの荒業である。

 慣れていなければ、とても許容できる移動ではない。

 強行移動を支えたのは、甥や姪の存在であった。
 妹が、今回の法事にあわせ、子供たちを連れて岡山の実家に戻ってきていた。

 甥や姪とは先月に会ったばかりである。
 が、やはり、何度でも顔は合わせたいものだ。

 二人とも、僕らの家系の面立ちが明瞭に混じっているだけに、格別な思い入れがこみ上げてくる。
 まぎれもなく自分と血がつながっているということが、わかるのだ。

 この点――
 例えば、街中ですれ違う乳幼児たちとは、様相を異にする。

 たしかに、甥や姪が生まれたおかげで、街中ですれ違う乳幼児たちに親しみを感じるようにはなった。

 が、それ以上の思いはこみ上げてこない。
 何かが決定的に足りないのである。

 その何かが、血縁と関係していることは、疑いようがない。

 血縁の強権性を感じる。

 その強権の前には、理性も博愛も無力である。