小説を仕上げるのは、作家ではない。
読者である。
作家が記した文字の羅列から意味を汲み取り、心象の映像や音楽として再編し、見事に上演するのは、あくまでも読者の主観であって――
そこには、作家の主観の入る余地はない。
ここに小説の面白さや難しさが凝縮されているといってよい。
映画や音楽では、そういうことはない。
最後の仕上げは、監督がしたり歌手がしたりする。
僕は小説書きなので――
ときどき、映画の監督や音楽の歌手を羨ましいと思うことがある。
映画の監督や音楽の歌手は、自分の主観を、かなり新鮮なままで、受け手に送り届けることができる。
自分が思い描いた通りの物語や旋律を、ほぼそのままの状態で、受け手に提示することができる。
小説書きは、さながら自分の主観の干物を送っているかのようだ。
その干物から、干される前の新鮮な状態を、受け手に推し量ってもらわねばならない。
しかも、その推し量り方に明示的な処方箋を付けてはならぬという不文律がある。
小説は、作家と読者との共同作業が結実しなければ、映画や音楽が与える感動には遠く及ばない。
だからこそ――
小説は自由でなければならぬと思う。
小説に制約を課すことは、無地のノートに罫線を引くようなものである。
小説書きが、いつまでも小説の作法にこだわっていては、小説の衰退を招きかねない。
少なくとも商業の媒体としての小説は、ますます痩せ細っていくことだろう。